西荻春秋とは

地域のカルチャー教室「松庵舎」で、
西荻の興味あるお店とひとを取材する奥村森主催の「ぶらり取材体験」。
参加者が探し、取材し、撮影して記事にまとめたものを掲載しています。

単なる店舗情報等ではなく、地域史の収集、保存、
ヒューマンドキュメンタリーを含めた取材を目指します。

取材参加者募集中!! です。

提供:地域のカルチャー教室「松庵舎


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。
著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2017年9月26日 (火曜日)

「西荻春秋」から見える「すぎなみ学倶楽部」の魅力


001_3


区民が録音機とiPhoneやカメラを携え、杉並の魅力を取材してウエブサイトに発信する活動。その媒体名を「すぎなみ学倶楽部」と呼ぶ。

カテゴリーを「歴史、ゆかりの人々、スポーツ、産業&商業、食、文化&雑学、自然、特集、まち別検索、写真検索」に分類して掲載している。

杉並区には、自治体、企業、団体、個人など、数多くのウエブサイトが存在する。商店や住民などに「あなたが知っている杉並のウエブサイトは(西荻春秋調査)」と質問すると、「すぎなみ学倶楽部」は圧倒的知名度を誇る。区が運営するウエブサイトだからだろうか。2016年に10周年を迎え、掲載記事は合計1000件を越えた。イベント活動など掲載から3年経過し、取材当時から内容が異なっていると判断した記事を3年前に30%削除して、現在、我々が目に出来る記事は1050~1060件になった。



目的と組織


国は、地域参加を推し進める方針を発表した。団塊世代が退職して自宅に引きこもる現実、グローバル化や貧困、教師が手一杯な状況など、複雑化する地域の課題を人材の育成と活用で地域民みずからが解消する目的で考案された。

その方針を受け、平成17年度に杉並区は、区民が好意度と愛着度、そして誇りを持って住み続けたい地域と思える町にしようと、杉並の魅力を内外に発信する「杉並輝き度向上」計画の取り組みを始めた。

平成18年4月、「すぎなみ学倶楽部」は、その施策のひとつとして設置された。当初は、現在の杉並区協働推進課の前身であるすぎなみ地域大学担当課が担った。さまざまな杉並の魅力ある情報を、区民や他の地域に暮らす人々と共有し、発信することを目的とした、区が運営する区民参加型ウエブサイトである。

元々は、杉並区役所区民生活部に協働推進課と産業振興課があった。協働推進課から事務事業が産業振興課に移管され、その産業振興課が本庁舎から荻窪に移転して産業振興センターとなった。「すぎなみ学倶楽部」は、観光的な要素も含まれるとの考えで、協働推進課から現在の産業振興センター観光係が担当することになった。

杉並区産業振興センター・観光係は、「すぎなみ学倶楽部」運営などの事務を特別非営利活動法人TFF(チューニング・フォー・ザ・フューチャー/代表 手塚佳代子氏)と委託業務契約を結んでいる。その中には「区民ライターとの連絡調整」の一項も含まれている。

観光係は、2か月に1回TFFと定例会議を開き、ウエブページの記事進行状況やアクセス状況の解析などについて討議する。そこでは、同分野が重複しないバランスのよい記事構成について、「クリック数、ページビュー、滞在時間」などの評価をどのように向上させるか、クレーム対策など、広範な内容が議題となる。

観光係の近藤係長は「手塚さんは、『すぎなみ学倶楽部』の目的を理解するプロフェッショナル。他の自治体から、『区民参加型の公式ウエブサイト発信システム』を評価して視察の申し出もあるほどだ」と信頼を寄せる。

ちなみに手塚さんは、制作会社に勤務した経験を生かし、人と情報をコーディネートするプロジェクトマネージャーである。TFF理事に加え、杉並区郷土博物館の運営委員も務めている。博物館からの報告を承認し、意見する役割を担う仕事だという。

過去と現在の記事を比較すると、当初の『すぎなみ学倶楽部』は、どちらかと言えば硬い表現が多く、長文記事が主流だったと記憶する。手塚さん率いるTFFが担当してからは、写真を大きく文章を少なくして読み物からインスタグラム風に転換したような印象を受ける。

近藤係長は「ウエブサイトをどうしたらよいのか、区民ライターの記事を受け入れるだけではなく、ウエブサイトは多くの人に見られなければ意味がない。楽しい方向に成長したのではないか」と振り返る。



原稿づくりの現場


区民ライターの目線で選んだ取材先を、TFFが整理して観光係に示す。近藤係長は、「読ませる記事ばかりでも嫌になる、写真ばかりでも物足りない、トータルバランスでよいウエブサイトを作ることを念頭に選択している」と語る。

しかし、『ラーメン』をテーマにした情報、『ゆるキャラ』が伝える人気の『なみすけブログ』、『例大祭』日程などの情報、『貞明皇后 大河原家』や『中島飛行機』などの歴史記録、このような内容は注目度が高いので連載することもある。

掲載テーマの方針が了承されると、いよいよ取材依頼に移る。区民ライターが先方に声を掛けるのが通例だが、観光係やTFFから連絡することもある。

杉並区のウエブサイトなので一般人は勿論のこと、『時の人』や『著名人』も取材に快く応じてくれることが多い。元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高氏も快諾してくれたひとりだという。

公共サイトなので、原稿が特定の内容や団体に偏らないような配慮が必要だろう。また、歴史認識や思い込み記事は、異なる見解があり、事実を曲げる可能性もあるので神経を使わざるを得ない。

また、「すぎなみ学倶楽部」にはウエブサイト多言語版(英語、韓国語、中国語)もあるので、TFFでは、翻訳しやすい文章にするため、マニュアルに基づいた指導を行っているとのことだ。

「すぎなみ学倶楽部」を開始して2~3年は、研究者たちがライターとなり、自らの責任の下で自由に原稿を作成した時代もあったと聞く。観光係やTFFの人々は何も語らないが、ブログ発行元である杉並区にもクレームが及んだに違いない。その防衛手段として、いろいろな管理基準を設けたのだろうか。

TFFスタッフは、経験の浅い人、不慣れな人、緊張して上手く出来ない人、ルール違反する人などには、取材が終了してからでは間に合わない場合もある。手塚さん自らインタビューに同行することもあるという。

003


取材当時、観光係だった江崎(えさき)さんと出雲谷(いづもたに)さんも現場を訪れることがある。そして、TFFから届いた原稿を校正する。区の公式情報サイトなので、誰が読んでも解りやすい文章にすることを重視、また、余りに難しい言葉や漢字だと修正を入れることもある。

このように重なる修正が入ると誤字脱字や誤認は解消されるが、統制された環境の中で個性がどれだけ発揮出来るのか、ライターのやる気を最後まで持続させられるのか、それが大きな課題となる。

「すぎなみ学倶楽部」に8年間関わり、これまで約40本の原稿を書き上げたベテラン区民ライター、中谷明子さんに訊ねてみた。

「私は、『すぎなみ学倶楽部』を情報サイトだと認識している。だから食の取材で『美味しい』ではなく『風味が豊か』と書く。『美味しい』という個人の気もちは、読者の気もちではないと考えるから」

運営者よりも規制を遵守する意識が強いではないか。関わる人たちが一体となり、ルールを守る姿が印象的だった。

更に、取材には高度な知識が必要だ。職人、芸術家、学者など、専門分野の話題を理解できなければ取材自体が成り立たない。手塚さんは「専門家の取材は、仕事についてインタビューするのではなく、杉並で何をしているかに主眼を置いている。大雑把に見て素人が理解できる範囲でよいと思っている。取材対象者に手間をかけた分、地域情報のプロである我々は、情報提供をしてお返しをするよう心掛けている」と言う。

我々の「西荻春秋」の場合には、ボランティア活動とは言え、適材適所の人材をインタビュアーとして採用するか、適任者がいない場合は、時間をかけて勉強してから訪ねることにしている。

「すぎなみ学倶楽部」は、「区民ライターによる取材」が絶対条件だから致し方ない着地点なのだろう。



写真撮影の現場


002


写真撮影技術も取材には欠かせないスキルである。「西荻春秋」のカメラマンのキャリアは、約10年~40年以上のベテラン。それでも厳密に言えば満足な結果が得られるのは稀である。

写真は、『思考、感性、技術』それぞれの要素が満たされて作品となる。『思考』とは撮影対象を学んで自分の撮影目的を決定する能力、『感性』とは自身の生まれ育った環境から構築される美意識、『技術』は撮影機材の取り扱いやライティング技術のことである。

通常、専門学校では、これらの技術を2~4年かけて教育する。プロカメラマンレベルともなれば、学びきれないほどの奥深さがある。最近はデジタルカメラが普及して、誰もが簡単に写真を撮れる時代になった。しかし、それは写すだけのスナップで写真とはいえない。

一般人のほとんどは、マニュアル撮影も可能なカメラではなく、全自動カメラやiPhoneで撮影している。ライティング技術に至っては、まったく考えもしないだろう。「すぎなみ学倶楽部」では、年に2~3回、カメラ講座を開催していると聞く。

手塚さんは具体的な指示を出すこともあるようだ。それはやむを得ぬ究極手段だと思う。

これら現場の状況から、区民参加型ライターの育成と対応の難しさが見えてくる。プロであれば未熟な者は、即クビにすることが可能だ。しかし、区民ライターのやる気をなくさないようにしながら、掲載可能レベルに達するまで補助しなければならないからだ。編集を担当する人達の苦労は相当なものであろうと推測する。



著作権管理


著作権法は知的財産権のひとつで、著作権の範囲と内容について定める法律である。これまで知的財産に関して日本人は寛容だった。もめ事を嫌い、人間関係を維持するために、お茶を濁す日本人気質がそうさせていたのかも知れないが、知的財産権に関する認識の希薄さもあったように思われる。

グローバル化が進むにつれ、誰もが権利を主張するようになった。日本特有の玉虫色の時代は終焉に向かっている。しかし、お茶を濁す意識は、変わらない、いや、変えたくない人も多いだろう。玉虫色は、ズルサもあるが優しさも含まれているからだ。著作活動では、その曖昧な気もちが著作権法に抵触する可能性もはらんでいる。

最近は、ほとんどの人がコンピュータで原稿を仕上げる。情報入手もインターネットで簡単に取得でき、長文でもコピーは簡単だ。「コピペ」という言葉が定着するほど普及度は増している。

現在、新聞や雑誌などの記事でも「コピペ」を数多く発見する。私事で恐縮だが、自分の著書が漫画本として無許可で使われる被害を受けた。原本を書いた者には、すぐに盗作だとわかる。著作権法違反として訴訟を起こすか否かの判断を迫られる。訴訟も地獄、黙っているのも悔しい、どちらを取っても嫌な気分になるのは避けられない。

観光係の出雲谷さんは「著作権法などの配慮から記事に使う資料の出所は明確にしなくてはならないが、文章の読みやすさを大切にするため、挿入する場所に気を使って対処している」と語る。著作権講座も折々開催しているようだが、「コピペ」は、書いた本人にしかわからない。事実確認するのは相当難しい。これを実行する「すぎなみ学倶楽部」には、ただただ脱帽するばかりである。



「すぎなみ学倶楽部」在っての「西荻春秋」


以前、私は「すぎなみ学倶楽部」のインタビューを受けたことがあった。それまで当サイトの名前も知らなかった。また、「西荻春秋」メンバーのひとり、窪田幸子さんも取材を受け、「すぎなみ学倶楽部」に強い関心を抱くようになった。

私は、杉並を対象にしたドキュメンタリーブログ「西荻春秋」の編集を担当している。主なメンバーは、カメラマンやライターや学芸員を専門職とする人々、更には、それに準ずる人たちである。

編集で難しいのは、仕事よりも人間関係である。取材先の快諾を得ても、実際にブログに掲載できるのは70%。

「西荻春秋」には決まりがある。ボランティア活動なので、取材先と記者が納得できる内容になるまで話し合い、調整が困難な場合は掲載を断念するというものだ。

互いの意志を尊重して、どちらを選択してもよい関係を保とうと努めているが、そうそう綺麗事では収まらない。明らかに発言しているのに記事の消去を要求、更には記者の感想にまで口出しする取材先もある。

一方、ライターは誤字脱字の校正は素直に受け入れるが、長年培ってきた人生観に触れると気分を害することもある。ある日、役所で定年退職した男性が「西荻春秋」に参加した。原稿を読むと全てインターネットからのコピー、しかも著作権を心配したのか、それぞれに転載先が記されている。まるで会議用の調査資料である。

原稿としては成り立たず却下したが、これまで彼の人生で大切にしてきた「自分を露わにしない」という信念に触れてしまったようだ。可哀想に思えるが、怒りを収めることは出来なかった。以来、取材に慣れたプロフェッショナル、それに準ずる人材とメンバーを組むことにした。

「すぎなみ学倶楽部」は、膨大な記事をどのようにこなしているのだろう。人格の異なる区民ライターとどう向き合っているのだろう。そんな思いが何時しか好奇心に変わり、取材をお願いすることになった。

取材を終え、気づいたことがある。「すぎなみ学倶楽部」は報道媒体ではなく、情報を媒介として杉並区と区民のコミュニケーションを構築する媒体なのだと。また、アクセス数が多いのは、単に区の看板で情報を発信しているからではなく、公共サイトでありながら世間の流行にとても敏感、考え方も柔軟でフットワークもよいから達成出来たのだと思う。

杉並には「すぎなみ学倶楽部」を代表として、民族学的研究プロジェクトで上智大学社会学教授、ファーラ―・ジェームス氏が主宰する「西荻町学」、西荻窪の小さな情報を伝える「西荻丼」など、多数の優れたウエブサイトが存在する。それぞれが異なる目的とスタイルで情報発信している。

私たちの「西荻春秋」は、昭和時代に脚光を浴びたドキュメンタリー・グラフ誌のブログ版と位置付けている。ブログとしては長文で事実を検証した上で、著者の意見を伝えることに主眼を置いている。写真は場面をイメージさせるツールと考え、一枚一カットを大切に撮影し、時間を惜しまず丁寧に仕上げている。

「すぎなみ学倶楽部」と「西荻春秋」は価値観が真逆のウエブサイトである。しかし、「すぎなみ学倶楽部」の存在あって、われらブログの確固たる道筋を確認できた気もする。互いに切磋琢磨して成長して行きたい。


文:奥村森
写真:澤田末吉

取材日 2016年10月25日


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2017年9月 1日 (金曜日)

金田一秀穂先生の西荻今昔

5

松庵生まれの国語学者金田一先生に西荻窪についてお話を伺うことにした。わざわざ松庵舎にお出で頂けるということなので、待ち合わせはJR西荻窪駅の改札口となった。失礼のないようにと約束の時間より早めに着いた私たちの前に、先生はすぐに現れた。先生は「アリャ」と思われたそうだが、もちろん早く来てよかった、と安心している私たちが気付くわけはない。早速、松庵舎に向かった。途中の道は先生が子供時代に駆け回った場所だ。

住宅街を歩いていると、「この付近には大きな家があったけどみな小さな家に分けられちゃったなー。この近くに大きな桜の木があったんですけど、どうなったんですかね?」、と聞かれて、落ち葉や虫の手入れが大変で伐採されてしまった、と言う私たちの返事に残念そうだった。歩きながらいろんなことが思い出されるようだった。先生がひときわ懐かしそうにみえたのは、松庵舎の玄関前で五日市街道を挟んだ斜め向かいの三軒長屋を見た時だった。「あそこに竹屋さんがあって、本木さんというお店だったけど、文房具も売ってたんですよ。よく買いに行ったな」。お気に入りのお店だったそうだ。今は建物だけが残る。この近くにはもう一軒、松庵堂という文具屋さんもあったが、今はそこもない。



松庵と自転車


Photo_3


先生は昭和28(1953)年5月の生まれ。同35年に松庵小学校に入学した。中学は西宮中学校。この小学校の校歌が父上の春彦先生の作詞だそうで、この校歌ができるまでの興味深い話をお姉さんの美奈子さんが、同小学校の同窓会で話されているので関心のある方はこちらのサイトを見て下さい。



「小学2年生、3年生のとき入院していたことがあって、健康な子供ではなかったけれども自転車で駆けずり回っていました。よその畑を通り抜けても誰に文句を言われるわけでもなく、のんびりしてましたね。自動車も危ないことなくて、道が舗装されていないから土ぼこりがすごかった。それが、ある日五日市街道が舗装されてびっくりして、家の前まで舗装されて愕然とした」。

Photo_5


「隣の家が辻さんち(現在の一欅庵)で、うちと庭続きだったからよく遊びに行ったけど、そこの大きな防空壕で遊んで怒られたことがあった。危ないから大人は止めるでしょうけど……。そういえば中央線が土手の上を走っていたころ、線路にくぎを置いて叱られたこともありましたね。まさか電車が止まるとは思ってもいなかった」。そのころ、防空壕に入って探検ごっこをしたり、線路にくぎを置いたりする遊びはスリルがあって、子供たちの好きな遊びだった。恐ければ恐いほど思い出は鮮明だ。

「小学校の通学区域のそとにいくことは恐かったですね。武蔵野市との境の道は越えることはほとんどなかったです。心理的なバリアーみたいなのがあったのかな。ですから神社の縁日でも松庵稲荷神社はいったけれども、春日神社はちょっと遠いし、区域外の吉祥寺の武蔵野八幡宮にはいかなかった。久我山にもあったけど何か違う、怖いところでしたよ。不良がいてお金を取られるようなね。そういう危ないところでした。中央線の線路の向こうにあった薄気味の悪い道、知ってるでしょう?」。突然聞かれた。初めは聞いている私たちの誰も、どの道のことかわからなかった。



薄気味の悪い道と沼


「線路の向こうでさ、行き止まりの道でそこがロータリーになってるの。ただの路地なんだけど子供心にわけのわかんないみちで、誰かの屋敷跡かもしれないけど、幽霊が出そうな感じで気味悪かった。今のうち写真撮っておいた方がいいよ。なくなっちゃうよ」、と言われて翌日、現場に出かけてみた。確かに子供だったらそんな感じの道ではあった。ここは松庵小学校の通学区域の北の端になるところでもある。念のため法務局で調べてみると、ロータリーの歴史は詳しくはわからなかったが、明治後期、松庵村の農家であった窪田太左衛門が畑の一部を姉の夫に譲ったものだとわかった。お勧めに従って写真は撮っておいた。

昭和30年代は屋敷跡ばかりでなく空き地や原っぱ、池などがあちこちにあって、子供たちの格好の遊び場だった。「池といえば、この道の近くだけど、吉祥女子高に行く途中に得体のしれない沼があったの。自然に湧いている池かどうかわからないけど。荻窪辺りは湧水が多くて、よそと違って水がおいしいといわれるんだよね。裏手に大きな池のあるお寺もあったんだけど、この間Google Earthで見てみたけど分かんなかったな」。この沼は現在の地図には載っていないので、杉並区立郷土博物館で調べると『杉並の川と橋』(研究紀要別冊、同博物館発行)に収められている論文「杉並の川と水源」(久保田恵政著)に次のように書かれていた。「鉄道施設用土採取跡地の池は、高円寺、阿佐ヶ谷の他に、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヵ所あった」。そのひとつが松庵窪(女窪)で場所が西荻北3-9と記されていて、先生の話している辺りになる。これは地元の昔をよく知る人で、甲武鉄道(現中央線)を走らせる土手を作るのに、必要な土砂を採った後のくぼみに水が溜まった池だ、と話す人もいて、おそらく湧き水ではないのだろう。

Photo

松庵窪(女窪)付近から線路に向かって下っている坂と本田東公園

ただ、現地に行ってみると、この辺りが吉祥寺方向に下がっていて、ここよりさらに低くなっている場所を見つけることができる。線路沿いの北側にある本田東公園だ。杉並区と武蔵野市との境界の道をあいだにして市側にある。ここが、雨が降るとよく水が溜まり、池のようだったという地元の人の話があって、あるいはこちらが「得体のしれない沼」だったのかもしれない。


恐い事件と懐かしい店々


「怖い話だけど、松庵稲荷のそばの交番でお巡りさんがナタか斧で殺されるという事件があったんですよ。犯人が捕まらなかった」。これも調べてみると、昭和41年7月27日未明の事件で、27日付の読売新聞朝刊に「交番の巡査殺さる」という5段見出しの記事で第一報が、同日の夕刊で詳細が報じられている。その交番は今はない。先生が13歳の少年の時になる。
なにやら漫画の『金田一少年の事件簿』みたいな話題になったところで、金田一姓の読み方について耕助探偵にも登場してもらう。いまでこそ金田一姓はほとんどの人が正しく「キンダイチ」と読めるだろう。しかし昔はそうでなかったと、春彦先生は嘆かれていて、「戦後は、金田一耕助探偵のはでな活躍で、キンダイチという苗字をはじめから読んで下さる方がふえたのはありがたいことで、作者の横溝正史さんに千金を積んでも感謝したい気持である」、と『出会いさまざま』(金田一春彦著作集第12巻)に書かれている。余談でした。

「仲通りに、駅へ行く左側に豆腐屋さんがあって、向かいがこんにゃく屋さんでした。いつごろか、豆腐屋さんが火事を出して、それが生まれて初めて見た火事でしたね。梅村質店の子が同級生でした。そばにある床屋の佐藤さんで、雑誌『少年』の鉄人28号や鉄腕アトム、ストップ兄ちゃんなどの漫画を読んだりしてました」。

「昔のことは言い出したら、ああ、キリがない。時間がいくらあっても終わらないですね。『キングコング対ゴジラ』を見に行った映画館・西荻セントラルもボーリング場になって、それも今はなくなった。映画館の近くに高級プラモデル屋さんがあって、レーシングカーで遊んだこともあったな。駅の南口に向かう銀座通りに、不思議なことに時計屋さんが五軒もあった。おじいさんが奥の方にいて仕事していた。好きでよくのぞいたけど、そのお店もいつの間にかなくなっちゃった。この通りと五日市街道の角(今の広島カンランのところ)にヤマザキパン屋さんがあって、その隣がクリーニング屋さん、その数軒さきが食堂だった。ちょうど関東バスの停留所前だったと思います。オムライスとかよく食べたけど僕の食堂のイメージはこのお店ですね。五日市街道沿いには、魚屋さんとか好きで通った本屋さんとか、お店屋さんがたくさんあったけど、ほとんどなくなっちゃたですね。残っているのは高橋菓子店ぐらい。昔のことを知っているというのは、いいことなのか悪いことなのかよく分かんないですよね」。


西荻の今と三代目


話題を今に戻して、西荻窪の魅力について語ってもらうことにした。「久我山のほうになっちゃうけど、ちょっと木が繁っていて武蔵野の雰囲気が残っているところ、西荻にもあるけど緑の多いところが好きですね。この間読んだ橋本治さんの本で彼が言っていたけど、西荻は隠れおしゃれタウンなんだそうですよ。そんなこと言わなくても、高円寺や阿佐ヶ谷もおなじだけど、駅前に安くておいしい焼き鳥屋があるのがいいですよ。西荻だと戎ね。狭くて小さくて昔風のバラックで崩れ落ちそうな雰囲気がいいですよ。いいよね、このいい加減さが、駄目さが好きですね」。

「そうそう、このことは言っておきたいんですけど」、と強調されたのは、「西荻に住んでいていいなと思うのは、金田一家三代目でよかったなと思わされることですね。床屋さんに行くと父の髪型がこうだったとか、すし屋で父の好みがこれこれだったとか話をされると、浮ついた名前だけの関係という感じでなく、なんか地に足の着いた安心したお付き合いができて、この地に生まれた三代目ということを実感できることがうれしいですね」。

Photo_4


今の日本語の状況について尋ねると、「若い人は若い人なりに自分に合った言葉を使っている。間違っていても自分の気持ちにぴったり合う言葉を使っている。それはどうしようもないことですね。でも、大人は違う。間違った言葉を使ってはいけない。大人は注意してもらえないですから。政治家の言葉使いはひどいものだし、団塊の世代はたかが言葉じゃないかと思っているようで、どうしようもないですね」、とこれまでの話ぶりとは違った、きっぱりとした口調でいわれた。

取材が終わるころ、「今日は西荻なので早めに行って、水のおいしい西荻でうまいコーヒーを飲もうと、楽しみに来たのに、降りたらもう来てるんだもん。アリャと思って、行きそこなっちゃったよ」、と言われてしまった。おいしい喫茶店があるのも西荻の魅力の一つですね。お会いしたとき、そうとは知らず松庵舎に案内してしまい失礼いたしました。よく通った喫茶店ということなので、帰りに寄られたことと思いましたが、戎かもしれないという声もありました。先生、早く行き過ぎてすみませんでした。

Photo_6



文: 鈴木英明
写真: 澤田末吉

取材日 2017年6月26日


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2017年7月27日 (木曜日)

杉並区高円寺在住イタリア人

ジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)さん


001


イタリア半島西方の地中海に浮かぶサルデーニャ(Sardegna)島、人口165万人、面積はシチリア島に次いで地中海で2番目に大きな島である。海に囲まれた豊かな自然と古い建造物が残る歴史ある町並みが魅力だ。これから紹介するジョバンニさんは、そんな環境で生まれ育った。

イタリア人というと、陽気でお喋りのイメージがステレオタイプ(先入観)として定着している。だが、彼にそれは当てはまらない。穏やかで落ち着いた紳士だから。言語も文化も異なる国に長く住み続けるのは簡単なことではない。インタビューに応じるジョバンニさんから、柔軟で協調性に富んだ人柄を感じた。「この人だから、10年もの長きに渡って日本在住が出来たのだ」その秘密の一部を垣間見た気がした。

ジョバンニさんは、島から比較的近いイタリア・ルネサンスの拠点、フィレンツェ(Firenze)にあるフィレンツェ大学に入学した。そして、教育学と言語学を専攻した。「失礼かも知れないけれど、最初は日本に全然興味がなかった。ドイツ語やイタリア語を話す人は多いから、珍しい言葉を勉強したいと思った。だから日本語を専攻した」と振り返る。

日本語の難しさにクラスメイトが次々と脱落していく。ジョバンニさんは勉学に励み、見事修士課程を取得、卒業旅行で初めて日本を訪れた。日本については、滞在経験のある同級生や日本の友人から話を聞いていたが、初めての日本で強く印象に残ったのは風景だった。

秋の紅葉は素直に美しかった。だが、町の空が見えないほど張り巡らされた電線には驚かされた。イタリアでは景観維持のため規制が厳しくありえない光景だからだ。

卒業後は、フィレンツェで働きたいと望んだが仕事がなく、ビジネスチャンスを広げるために貿易を学ぼうとベルギーを訪れた。その後、貿易研修のために再来日、以後10年、日本に住むことになった。

ジョバンニさんは、イタリア語教師の傍ら、写真家としても活動している。おじいさんがカメラ屋を営んでいたので、小さい頃からカメラに触れる機会があった。学生時代はミュージカル歌手をしていたこともあったが、東京では音楽活動は難しいので、代わりに写真を撮っているという。

彼の写真のモチーフは日本とサルデーニャ島の風景や祭りで、ギャラリーでの展覧会も開催している。日本では、徳島の『阿波踊り』や越中八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事『おわら風の盆』などを 写真に収め、阿波踊り協会等に写真提供もしている。

サルデーニャ島の祭りはどのようなものか聞くと、「長くなるよ」と笑いながら嬉しそうに語ってくれた。サルデーニャ島では、1年に約120もの祭りが行われる。自然と生活が密接に関わるこの島では、祭りも自然に関わるものが多く、その点では日本の神道にも共通点が見られるという。

昔は、食事も仕事も自然の影響を大きく受けたため、自然崇拝や豊作祈願をしたり、祈りのために生きている人を捧げたりしたそうだ。現在では実際に犠牲は行わずに模倣により伝統を受け継いでいる。中世、サルデーニャ島は4つの地域に分かれていた時代があった。祭りにもその影響が見られ、同じ島内でも30キロメートルも離れれば地域によって全く異なった祭りが行われる。

騎馬行列があったり、日本の『なまはげ』のような格好をしたり、特色は様々だ。自然への祈りや行事内容など、日本の伝統的な祭りとの共通点も見られ、遠く離れた地でも昔の人々の生活は似ていたことに驚く。ジョバンニさんは、日本サルデーニャ協会の運営に参加しており、こうした祭りなどを中心に、写真を通してサルデーニャ島の文化や歴史を日本に伝えている。

また、5年ほど前に日本の旅行会社から相談を受けたのをきっかけに、ジョバンニさんはサルデーニャ島への旅行案内も行っている。サルデーニャ島は、リゾート地として海を見に行きたいという人が多いけれど、島の良さは内陸にある。自然保護環境に優れ、他の場所で失われてしまったものも残っている。

シチリア島では、他民族が移り住んで新しい建造物がたくさん建てられたが、サルデーニャ島には移民が少なく、文化にあまり変化が起きなかった。郊外に3000年前の遺跡がいっぱい存在する。今でも昔と変わらぬ時間がゆったりと流れる。

「サルデーニャの人々は自分のアイデンティティを持っているから、現在でも羊飼いがいて、歴史や伝統を大切に守り続けている。それがサルデーニャの魅力、島を案内して人々が感動するのを見るのが嬉しい」とジョバンニさんは誇らしげに語る。イタリアを離れ、いろいろな異文化に接してきた彼の言葉には説得力がある。

「他国の文化や習慣、考え方で合わないことがあっても、『ありえない』と拒否するのではなく、合わせることも必要。僕は、ここではお客さんだから」郷に入っては郷に従えの故事を実行している。

そんな彼だが、芸術家としての一面も顔を覗かせる。「展覧会を開催すると、機材は何を使っているかと尋ねる人が多い。僕は、もっと作品を見て欲しいと思っている」この発言はカメラ機材などの道具よりも、写真作品、つまり創作を大切にしている証である。

また、日本国内を旅行する時は、ホテルよりも民宿を使うようにしているという。「自分の家族のように迎え、もてなしてくれる。ホテルの『お客様は神様』みたいな対応はあまり好きじゃない」人との出会いを大切にする姿勢も強く感じた。

 現在、高円寺に住んでいるジョバンニさん。「杉並の魅力は、下町の感じが残っていること。高い建物が少なく、生き生きとしたエリア。あと、高円寺に住んでから、阿波踊りにはまった。お陰様で、毎年阿波踊りの撮影をさせてもらっているから、夏は灼熱の東京に居てもすごく楽しい。」

「サルデーニャは一応イタリアだけど、文化と歴史が違うから、日本でいう沖縄みたいな島」現在はイタリアに属しているが、イタリア半島から離れているため、前述した異なる文化と歴史を作り上げてきた。言語も独自のサルデーニャ語が存在する。現世代のジョバンニさんはイタリア語で育ったが、サルデーニャ語も理解できる。島の高齢者は、今でもサルデーニャ語を使い、イタリア語が分からない人もいる。

そのためか、日本のテレビ局から頼まれ、サルデーニャ語を日本語に翻訳する機会も増えた。今後の夢について訊ねると、「教えるのが好きだから、イタリア語を教えながら写真の仕事も続けることが出来ればと考えている」と答える。

「日本に出身地、サルデーニャのサッサリという町などを紹介する活動をしたことがあった。今後は、日本をイタリアの大都市で紹介する活動もしたい」異なる環境で柔軟に人々と真摯に対応するジョバンニさん、更なる活躍を期待したい。

文:大久保苗実
写真:澤田末吉

取材日:2017年3月25日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2017年3月16日 (木曜日)

“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー

LID TAILOR 根本修さん


001

プロローグ

 西荻春秋の取材メンバーに冨澤信浩という記者がいる。彼は無類のモノオタク、車・バイク・ゴルフ用品・時計・携帯・音楽など、とりわけクラシックな機械モノに目が無い。そんな冨澤記者が是非とも取材したいと願望する店、それが根本修さんが経営するビスポークスーツやシャツをオーダーメードするLID TAILORである。欧米風なおしゃれな洋服屋さんと思って店内を覗くと、なんと、あのイタリア製のオートバイ“ドゥカティ”が、店頭にはスクーター“ヴェスパ”が飾られているではないか。それもかなりの年代物、居ても立ってもいられない冨澤記者は店に飛び込んだ。


モノ好きな二人、映画「ローマの休日」で心が通う

002_3


 LID TAILOR(リッド テーラー)の根本修さんは1972年生まれの44歳。店に飾られる“ドゥカティ750 Super Sport”は1974年に製造された42歳、知る人ぞ知る憧れの名車である。根本さんは「いつでも快調に走ります」と誇らしげに語る。それもその筈、これほどピカピカで大切に扱われた“ドゥカティ”とは滅多に出会うことが出来ないからだ。マニアにとっては宝物と冨澤記者は興奮する。

 根本さんによると、数台の“ドゥカティ”を所有する友人に是非譲って欲しいと声を掛けていたが、長年の夢が叶ってやっと実現したとのこと。自分は、いつも預かっている気もちでいると語る。ディスプレイされたスーツの陰にさり気なく置かれる“ドゥカティ”、「何とも言えないノスタルジックな気分になる」と冨澤記者はうっとり眺める。

 一方、“ヴェスパ”は1964年製、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが乗った、あのスクーターである。根本さんは「足代わりに使っている」というが、こちらも手入れが行き届いてピッカピカだ。「ローマの休日」の名場面に登場する“ヴェスパ”を必ず記事にして欲しいと、冨澤記者経っての願いなので、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、そして“ヴェスパ”の場面を再現してみよう。

003



 ヨーロッパ最古の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、 欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪、ローマでは任務を恙なくこなす王女だったが、内心は分刻みのスケジュールと用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにうんざりしていた。就寝の時間になると侍従たちにヒステリーを起こしてしまう。

 主治医に鎮静剤を注射され、気が高ぶってなかなか寝つけない。彼女は、宿舎になっている宮殿を脱出、夜のローマをぶらぶら歩く。やがて、鎮静剤が効いてきてベンチに身体を横たえる。そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)だった。若い娘がベンチに寝ているのを見て家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としている。そのまま放っておくことも出来ず、ジョーは自分のアパートへ連れて帰る。

 翌朝、うっかり寝過ごしたジョーは、まだ眠っているアンを部屋に残したまま、新聞社へ向かう。支局長から「アン王女は急病で、記者会見は中止」と聞いたジョーは、そこではじめて昨晩の娘の正体がアン王女であることに気づく。王女には、彼女の身分を知ったことを明かさず、ローマの街を連れ歩いて、その行動を記事にできれば大スクープになると目論む。


 アパートで目を覚ましたアンは、思いがけない事態に驚くが、同時にワクワクする気分も感じていた。アパートを出た後も、せっかく手に入れた自由をすぐに捨て去れず、街をのんびりと散策、ごくふつうの女の子のように楽しい時間を満喫する。

 スクープに必要な証拠写真をおさえるため、ジョーは同僚のカメラマン、アービング・ラドビッチ(エディ・アルバート)を誘って、アンを連れてローマを案内する。二人乗りスクーター“ヴェスパ”で街中を疾走、いろいろな名所を訪ねる。夜はサンタンジェロの船上パーティーに参加するが、その会場でアン王女を捜しにきた情報部員たちが現れる。アンとジョーは情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手を逃れる。


 つかの間の自由と興奮を味わううちに、アンとジョーに恋心が生まれる。河からあがった二人は、抱き合って熱いキスを交わす。本当の想いを口に出せないまま、アンは祖国と王室への義務を果たすために宮殿に戻り、ジョーは彼女との思い出を記事にしないと決意する。その翌日、宮殿でアン王女の記者会見が開かれる。アービングは撮影した写真がすべて入った封筒を、王女にそっと渡す。見つめ合うアンとジョー。「ローマは永遠に忘れ得ぬ街となるでしょう」笑顔と共に振り向いたアン王女の瞳には、かすかに涙が光っていた。


(参考資料:ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニュースマスター版記事より抜粋)


テーラーとは

 Tailorを手元の英和辞書(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)を引くと、(男子服を注文で仕立てる)テーラー、洋服屋、仕立屋とあって、その語源には初出が1297年で古期フランス語の「切る」という語から派生した、と解説されている。テーラーという言葉は13世紀末まで遡ることができるわけだが、その当時の服といえば袋のようなゆったりとしていて、仕立てる方もあまり腕の振るいようがなかったと思われる。テーラーの歴史は服装の歴史に重なる。どのような変遷をたどってきたのか、”The History of Tailoring” ( by G.B.Boyer ) で簡単に見てみよう。


テーラーの歴史

 中世期の服はルネッサンスの到来とともに衣服は次第に短く、タイトに変化していき、服作りも人の体形を意識したものに変わっていった。平らな布地をいくつもの部分に切り分け(カット)、縫い合わせることで立体的な人の体形に合わせた服を作り上げるようになる。17世紀中頃になると男子服の変化が始まり、それまで着ていたものからコート、ベスト、ズボンを着るようになり現代風の3点セットの原型が登場する。

 18世紀に入ると英国で男子服は、華美な装飾やフランス宮廷風なスタイルから離れ、新興のジェントリーや商人階級の好むはるかに地味な服装に移っていった。19世紀になるとこの傾向は宮廷にも浸透し、国王等の着る服と臣下の着る服にほとんど差がないような状態となった。そして産業革命のうねりの中で英国の服作りは、新興層向けに作り出された男子服のスタイルを進化させ、さらに、体形に合う(フィットした)服作りを進めた。英国文化が世界を席巻するに伴い、それにより、英国のテーラーがファッション界を支配するようになった。派手な装飾から離れる傾向が強まるにつれ、フィットするか、しないかは服作りの基準となり、そのためにテーラーにはより優れた技術が要求された。

 テーラーの服作りは機械化できないアートの境地に達する。人々は派手な表現より上品さ、簡潔さ、カットの完璧さをより好むようになる。テーラーは自らの服作りが一人ひとりのスタイル、個性のあらわれであることを確信している。今日、服装の世界が大量生産の時代を迎えるなか、テーラーはいずれ消滅すると言われたが、依然として個々の顧客本位の服作りと上質な服を武器に生き残り続けるとみられている。


テーラーの中心街サビル・ロウ

 テーラーの中心地はロンドン市内のサビル・ロウ(Savile Row)だ。一流の紳士服の仕立屋が多く並ぶファッション街である。英語でa Savile Row suitといえば仕立てのすばらしいスーツのことである。その街の老舗、Henry Poole & Coは1806年に創立された。父から事業を受け継いだヘンリーはサビル・ロウの創設者と呼ばれる。サビル・ロウの伝統を守ろうと設立されたホームページ(http://www.savilerowbespoke.com)には他の老舗のテーラー、Davies & Son,Gieves & Hawkes,Norton & Sons などの名が並ぶ。いずれも19世紀創業の店だ。しかしこれらの名になじみのある人は少ないだろう。テーラーは、顧客の注文で服を仕立てる店で、サイトの名にあるビースポーク(bespoke)の意味(服があつらえの)と同じである。大量生産して不特定多数の人々に服を提供するメーカーとは違って、テーラーの作る服は注文主の顧客にだけ合う唯一の、ユニークな服になるわけである。したがって、日本ではこれらのテーラーの名を知る人は限られてしまうことになる。


日本のテーラー

 さてテーラーという職業はいつ日本に誕生したのであろうか。日本が西洋文化に接した幕末と想像できるが、洋服ははじめ西洋服といったといわれる。福沢諭吉が慶応三(1867)年、彼の著書の『西洋衣食住』で西洋服のことを詳しく解説している。『福沢諭吉背広のすすめ』(出石昭三著)によれば、福沢は慶應義塾内に「衣服仕立局」を開き、塾生のために洋服を作り始めたそうである。同書から紹介する。

 西洋服を扱った最初の店は「富国屋」といい明治二(1869)年に日本橋で開店した。横浜の洋服商から仕入れていたそうだ。また日本人経営の初めての洋服屋は、横浜居留地で慶応三年に開いた「大和屋」であるが、万延元(1860)年、箱舘に日本人の洋服屋があったと言われている。和服の修理所にロシア人が洋服の修理を頼んだのがきっかけで、ロシア人の洋服を参考にして洋服を作るようになって、店の名を「木津洋服調達進所」といったそうだ。

 とにかく明治以降は文明開化ということで洋服の普及は目覚ましく、明治四(1871)年五月に発行の『新聞雑誌』には、「東京市中諸職人の中当時尤盛なるは軍服(ぐんふく)洋服(ヤウフク)の仕立屋なり」と紹介されている(小学館『日本国語大辞典』「洋服」の項)。


テーラー、洋服屋、仕立屋

 ちょっと横道の話。テーラーと洋服屋、仕立屋はどう違うのか。具体的にこう違うとはっきり指摘はできないが、仕立屋が少し古めかしい感じを受けるがどうであろうか。なにせ仕立てるという語は、「仕立て給える」という形で『源氏物語』にも使われている言葉だからそう感じてしまうのかもしれない。辞書(『同大辞典』)を調べれば、仕立屋は江戸期には使われていたことが分かるし、洋服屋は既に説明したように明治からで、テーラーは外来語として大正期の辞書に取り上げられている。ジョン・ル・カレに『パナマの仕立屋』(”The Tailor of Panama”)というスパイ小説がある。主人公の職業がテーラーでその邦訳題に仕立屋が使われている。ピーター・ラビットの童話の『グロースターの仕立屋』(”The Tailor of Gloucester”)も同じで仕立屋。映画にも『仕立屋の恋』というのがあった。どうやら文芸の世界では洋服屋は座りの悪い言葉のようで、仕立屋が好んで使われている。なお明治時代のスリの親分、「仕立屋銀次」は銀次が元和服の仕立て職人だったのでそう呼ばれたのだそうだ。洋服を作ってはいなかった。


LID TAILOR STORY

 根本さんは幼少の頃、母親が子供の服をミシンで縫う姿を目の当たりにしてきた。その潜在映像から洋服づくりに関心を抱き、この道をめざした。高校卒業後、服飾専門学校に進み、アルバイトで貯めたお金でお気に入りのテーラーで洋服を作った。福生の横田基地を拠点にしたアメリカナイズされた雰囲気の店でお洒落なオーナーに憧れていたからだ。

 専門学校卒業間近の頃、オーナーから卒業して何をするか決まっているのかと聞かれた。何も決めていないと答えると「それじゃあ、うちに来ないか」と誘われた。そのテーラーで10年ほど修業した。店の先輩から独立するので手伝って欲しいと誘われ、4年ほど一緒に仕事をした。その内に自分も独立して独自のスタイルで洋服づくりをしたいとの思いが強くなっていった。

 根本さんは1960年代にロンドンで発祥したモッズカルチャーが大好き、ビートルズやローリングストーンズの大ファンで、彼らの着ているスーツがカッコいいと思っている。着る側から作る側に代わっても、その思考軸は変わることはなかった。

 西荻窪の五日市街道添いに店を借りてスタートした。その後、今の場所に移転してLID TAILORという店名にした。今年で10年目を迎え、伊勢丹メンズ館や三越と取引するまでに発展した。

 冨澤記者が、テーラーなのに何故バイクとスクーターを置いているのかと質問すると、根本さんは「僕の周りには、趣味に共感して集まって来る仲間がいる。物で溢れる社会にあって、『これはカッコいい、これはカッコ悪い』とジャッジ出来る人達だ。彼等は服の選択にも自分らしい感性を発揮する。単に仕立てだから良いというのではなく、いろいろあるデザインの中から、根本スタイルを選んでくれる、それがLID TAILORの客層。“ドゥカティ”や“ヴェスパ”を愛する気もちと、テーラースタイルは重なると私は考える。特別に誂えた服は流行が終わっても、思い入れがあるから大切に着る人が多い。つまり、自分だけのものを大事にする精神が根づいている。いつまでも着続けられる服を作るのが、自分の基本コンセプト。時代に逆行しているかも知れないが、そこに共感して貰える顧客は沢山いるはず」と根本さんは語る。

 仕事で使う道具にも、根本さんのカタチ意識は強く感じられる。LID TAILORを杉並区松庵に開業した時、近所に老舗のテーラーがあった。挨拶に訪ねるとオーナーは90歳、高齢で廃業するのだという。ついては、60年使ったミシンを根本さんに貰って欲しいと願う。年代物で今では入手できない素晴らしいミシン、根本さんは綺麗に磨いて自宅に保管している。いずれは店のシンボルとして店に飾りたいと考えている。ハサミもイギリス製を好んで使う。日本製に比べると切れはよくないが、何ともいえぬ味がある。根本さんのカタチ好きは、テーラーの真髄を追求する源なのかも知れない。「楽しく仕事をするテーラーは、きっとよい服を作る」根本さんは、そう信じて止まない。

 テーラーになる人間は、縫製や物作りが好きとかいうのがベースにある。僕はストリート、モッズから服を始めた人間、だから凝り固まるのが大嫌い。10年後に同じ服を作り続けているか自分でもわからない。毎年よいと思うものが、多様に変わるという発想からだ。

 「僕は『職人一筋』とは、真逆の立場をとっている。勿論、縫製やカットの基礎技術は十分に習得していなければならないが、規則を重んじて縫製服だけを作っていたらテーラーとは言えない。テーラーの仕事は、その上にあると考えている。ネットが発達して要望も多様化している。リッド・テーラー・スタイルと合致する人に来てもらえればよい。誰にもわかって欲しいとは思わない。顧客が、わざわざ西荻まで訪ねてまでもリッド・テーラーの服を買い求めたい。そういう店であり続けたい」

 根本さんは穏やかな人柄だが、秘めたる強さを温存しているように思えた。

005



LID TAILOR
BESPOKE SUITS AND SHIRTS

〒167-0054 東京都杉並区松庵 3−31−16 #103

TEL&FAX 03-3334-5551
Mail: lidtailor@jcom.home.ne.jp
http://www.lidtailor.com/


文: 冨澤信浩&鈴木英明
編集: 奥村森
写真: 澤田末吉(ローマ画像)
奥村森(リッド・テーラー画像)

取材日 2016年11月28日


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2016年11月29日 (火曜日)

西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん


縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。

人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。

 

001

上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜田川平朗
(読売新聞社発行『人間国宝』より)

これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。

写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。

西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。

窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。


写真館のある風景

昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。

小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。

高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。

ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。

写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。

大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。

助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。

ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

 

002

左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん

吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。

文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。

昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

003_2

上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥
(杉並区立郷土博物館所蔵)


写真館が消えた日、時代も変わった

昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

004

玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー

 「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。

最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。

 「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。

誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。


記録の行方

スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。

写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。

文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。

写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。

これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

 


文: 奥村森
写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々
高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。 肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。

ー 参考資料 ー
読売新聞社 写真集「人間国宝」

取材日 2016年9月16日


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

«バイオリン製作者&修理 桂敏明