西荻春秋とは

地域のカルチャー教室「松庵舎」で、
西荻の興味あるお店とひとを取材する奥村森主催の「ぶらり取材体験」。
参加者が探し、取材し、撮影して記事にまとめたものを掲載しています。

単なる店舗情報ではなく、
ヒューマンドキュメンタリーを含めた取材を目指します。

取材参加者募集中!! です。

提供:地域のカルチャー教室「松庵舎


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2017年3月16日 (木曜日)

“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー

LID TAILOR 根本修さん


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プロローグ

 西荻春秋の取材メンバーに冨澤信浩という記者がいる。彼は無類のモノオタク、車・バイク・ゴルフ用品・時計・携帯・音楽など、とりわけクラシックな機械モノに目が無い。そんな冨澤記者が是非とも取材したいと願望する店、それが根本修さんが経営するビスポークスーツやシャツをオーダーメードするLID TAILORである。欧米風なおしゃれな洋服屋さんと思って店内を覗くと、なんと、あのイタリア製のオートバイ“ドゥカティ”が、店頭にはスクーター“ヴェスパ”が飾られているではないか。それもかなりの年代物、居ても立ってもいられない冨澤記者は店に飛び込んだ。


モノ好きな二人、映画「ローマの休日」で心が通う

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 LID TAILOR(リッド テーラー)の根本修さんは1972年生まれの44歳。店に飾られる“ドゥカティ750 Super Sport”は1974年に製造された42歳、知る人ぞ知る憧れの名車である。根本さんは「いつでも快調に走ります」と誇らしげに語る。それもその筈、これほどピカピカで大切に扱われた“ドゥカティ”とは滅多に出会うことが出来ないからだ。マニアにとっては宝物と冨澤記者は興奮する。

 根本さんによると、数台の“ドゥカティ”を所有する友人に是非譲って欲しいと声を掛けていたが、長年の夢が叶ってやっと実現したとのこと。自分は、いつも預かっている気もちでいると語る。ディスプレイされたスーツの陰にさり気なく置かれる“ドゥカティ”、「何とも言えないノスタルジックな気分になる」と冨澤記者はうっとり眺める。

 一方、“ヴェスパ”は1964年製、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが乗った、あのスクーターである。根本さんは「足代わりに使っている」というが、こちらも手入れが行き届いてピッカピカだ。「ローマの休日」の名場面に登場する“ヴェスパ”を必ず記事にして欲しいと、冨澤記者経っての願いなので、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、そして“ヴェスパ”の場面を再現してみよう。

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 ヨーロッパ最古の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、 欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪、ローマでは任務を恙なくこなす王女だったが、内心は分刻みのスケジュールと用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにうんざりしていた。就寝の時間になると侍従たちにヒステリーを起こしてしまう。

 主治医に鎮静剤を注射され、気が高ぶってなかなか寝つけない。彼女は、宿舎になっている宮殿を脱出、夜のローマをぶらぶら歩く。やがて、鎮静剤が効いてきてベンチに身体を横たえる。そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)だった。若い娘がベンチに寝ているのを見て家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としている。そのまま放っておくことも出来ず、ジョーは自分のアパートへ連れて帰る。

 翌朝、うっかり寝過ごしたジョーは、まだ眠っているアンを部屋に残したまま、新聞社へ向かう。支局長から「アン王女は急病で、記者会見は中止」と聞いたジョーは、そこではじめて昨晩の娘の正体がアン王女であることに気づく。王女には、彼女の身分を知ったことを明かさず、ローマの街を連れ歩いて、その行動を記事にできれば大スクープになると目論む。


 アパートで目を覚ましたアンは、思いがけない事態に驚くが、同時にワクワクする気分も感じていた。アパートを出た後も、せっかく手に入れた自由をすぐに捨て去れず、街をのんびりと散策、ごくふつうの女の子のように楽しい時間を満喫する。

 スクープに必要な証拠写真をおさえるため、ジョーは同僚のカメラマン、アービング・ラドビッチ(エディ・アルバート)を誘って、アンを連れてローマを案内する。二人乗りスクーター“ヴェスパ”で街中を疾走、いろいろな名所を訪ねる。夜はサンタンジェロの船上パーティーに参加するが、その会場でアン王女を捜しにきた情報部員たちが現れる。アンとジョーは情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手を逃れる。


 つかの間の自由と興奮を味わううちに、アンとジョーに恋心が生まれる。河からあがった二人は、抱き合って熱いキスを交わす。本当の想いを口に出せないまま、アンは祖国と王室への義務を果たすために宮殿に戻り、ジョーは彼女との思い出を記事にしないと決意する。その翌日、宮殿でアン王女の記者会見が開かれる。アービングは撮影した写真がすべて入った封筒を、王女にそっと渡す。見つめ合うアンとジョー。「ローマは永遠に忘れ得ぬ街となるでしょう」笑顔と共に振り向いたアン王女の瞳には、かすかに涙が光っていた。


(参考資料:ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニュースマスター版記事より抜粋)


テーラーとは

 Tailorを手元の英和辞書(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)を引くと、(男子服を注文で仕立てる)テーラー、洋服屋、仕立屋とあって、その語源には初出が1297年で古期フランス語の「切る」という語から派生した、と解説されている。テーラーという言葉は13世紀末まで遡ることができるわけだが、その当時の服といえば袋のようなゆったりとしていて、仕立てる方もあまり腕の振るいようがなかったと思われる。テーラーの歴史は服装の歴史に重なる。どのような変遷をたどってきたのか、”The History of Tailoring” ( by G.B.Boyer ) で簡単に見てみよう。


テーラーの歴史

 中世期の服はルネッサンスの到来とともに衣服は次第に短く、タイトに変化していき、服作りも人の体形を意識したものに変わっていった。平らな布地をいくつもの部分に切り分け(カット)、縫い合わせることで立体的な人の体形に合わせた服を作り上げるようになる。17世紀中頃になると男子服の変化が始まり、それまで着ていたものからコート、ベスト、ズボンを着るようになり現代風の3点セットの原型が登場する。

 18世紀に入ると英国で男子服は、華美な装飾やフランス宮廷風なスタイルから離れ、新興のジェントリーや商人階級の好むはるかに地味な服装に移っていった。19世紀になるとこの傾向は宮廷にも浸透し、国王等の着る服と臣下の着る服にほとんど差がないような状態となった。そして産業革命のうねりの中で英国の服作りは、新興層向けに作り出された男子服のスタイルを進化させ、さらに、体形に合う(フィットした)服作りを進めた。英国文化が世界を席巻するに伴い、それにより、英国のテーラーがファッション界を支配するようになった。派手な装飾から離れる傾向が強まるにつれ、フィットするか、しないかは服作りの基準となり、そのためにテーラーにはより優れた技術が要求された。

 テーラーの服作りは機械化できないアートの境地に達する。人々は派手な表現より上品さ、簡潔さ、カットの完璧さをより好むようになる。テーラーは自らの服作りが一人ひとりのスタイル、個性のあらわれであることを確信している。今日、服装の世界が大量生産の時代を迎えるなか、テーラーはいずれ消滅すると言われたが、依然として個々の顧客本位の服作りと上質な服を武器に生き残り続けるとみられている。


テーラーの中心街サビル・ロウ

 テーラーの中心地はロンドン市内のサビル・ロウ(Savile Row)だ。一流の紳士服の仕立屋が多く並ぶファッション街である。英語でa Savile Row suitといえば仕立てのすばらしいスーツのことである。その街の老舗、Henry Poole & Coは1806年に創立された。父から事業を受け継いだヘンリーはサビル・ロウの創設者と呼ばれる。サビル・ロウの伝統を守ろうと設立されたホームページ(http://www.savilerowbespoke.com)には他の老舗のテーラー、Davies & Son,Gieves & Hawkes,Norton & Sons などの名が並ぶ。いずれも19世紀創業の店だ。しかしこれらの名になじみのある人は少ないだろう。テーラーは、顧客の注文で服を仕立てる店で、サイトの名にあるビースポーク(bespoke)の意味(服があつらえの)と同じである。大量生産して不特定多数の人々に服を提供するメーカーとは違って、テーラーの作る服は注文主の顧客にだけ合う唯一の、ユニークな服になるわけである。したがって、日本ではこれらのテーラーの名を知る人は限られてしまうことになる。


日本のテーラー

 さてテーラーという職業はいつ日本に誕生したのであろうか。日本が西洋文化に接した幕末と想像できるが、洋服ははじめ西洋服といったといわれる。福沢諭吉が慶応三(1867)年、彼の著書の『西洋衣食住』で西洋服のことを詳しく解説している。『福沢諭吉背広のすすめ』(出石昭三著)によれば、福沢は慶應義塾内に「衣服仕立局」を開き、塾生のために洋服を作り始めたそうである。同書から紹介する。

 西洋服を扱った最初の店は「富国屋」といい明治二(1869)年に日本橋で開店した。横浜の洋服商から仕入れていたそうだ。また日本人経営の初めての洋服屋は、横浜居留地で慶応三年に開いた「大和屋」であるが、万延元(1860)年、箱舘に日本人の洋服屋があったと言われている。和服の修理所にロシア人が洋服の修理を頼んだのがきっかけで、ロシア人の洋服を参考にして洋服を作るようになって、店の名を「木津洋服調達進所」といったそうだ。

 とにかく明治以降は文明開化ということで洋服の普及は目覚ましく、明治四(1871)年五月に発行の『新聞雑誌』には、「東京市中諸職人の中当時尤盛なるは軍服(ぐんふく)洋服(ヤウフク)の仕立屋なり」と紹介されている(小学館『日本国語大辞典』「洋服」の項)。


テーラー、洋服屋、仕立屋

 ちょっと横道の話。テーラーと洋服屋、仕立屋はどう違うのか。具体的にこう違うとはっきり指摘はできないが、仕立屋が少し古めかしい感じを受けるがどうであろうか。なにせ仕立てるという語は、「仕立て給える」という形で『源氏物語』にも使われている言葉だからそう感じてしまうのかもしれない。辞書(『同大辞典』)を調べれば、仕立屋は江戸期には使われていたことが分かるし、洋服屋は既に説明したように明治からで、テーラーは外来語として大正期の辞書に取り上げられている。ジョン・ル・カレに『パナマの仕立屋』(”The Tailor of Panama”)というスパイ小説がある。主人公の職業がテーラーでその邦訳題に仕立屋が使われている。ピーター・ラビットの童話の『グロースターの仕立屋』(”The Tailor of Gloucester”)も同じで仕立屋。映画にも『仕立屋の恋』というのがあった。どうやら文芸の世界では洋服屋は座りの悪い言葉のようで、仕立屋が好んで使われている。なお明治時代のスリの親分、「仕立屋銀次」は銀次が元和服の仕立て職人だったのでそう呼ばれたのだそうだ。洋服を作ってはいなかった。


LID TAILOR STORY

 根本さんは幼少の頃、母親が子供の服をミシンで縫う姿を目の当たりにしてきた。その潜在映像から洋服づくりに関心を抱き、この道をめざした。高校卒業後、服飾専門学校に進み、アルバイトで貯めたお金でお気に入りのテーラーで洋服を作った。福生の横田基地を拠点にしたアメリカナイズされた雰囲気の店でお洒落なオーナーに憧れていたからだ。

 専門学校卒業間近の頃、オーナーから卒業して何をするか決まっているのかと聞かれた。何も決めていないと答えると「それじゃあ、うちに来ないか」と誘われた。そのテーラーで10年ほど修業した。店の先輩から独立するので手伝って欲しいと誘われ、4年ほど一緒に仕事をした。その内に自分も独立して独自のスタイルで洋服づくりをしたいとの思いが強くなっていった。

 根本さんは1960年代にロンドンで発祥したモッズカルチャーが大好き、ビートルズやローリングストーンズの大ファンで、彼らの着ているスーツがカッコいいと思っている。着る側から作る側に代わっても、その思考軸は変わることはなかった。

 西荻窪の五日市街道添いに店を借りてスタートした。その後、今の場所に移転してLID TAILORという店名にした。今年で10年目を迎え、伊勢丹メンズ館や三越と取引するまでに発展した。

 冨澤記者が、テーラーなのに何故バイクとスクーターを置いているのかと質問すると、根本さんは「僕の周りには、趣味に共感して集まって来る仲間がいる。物で溢れる社会にあって、『これはカッコいい、これはカッコ悪い』とジャッジ出来る人達だ。彼等は服の選択にも自分らしい感性を発揮する。単に仕立てだから良いというのではなく、いろいろあるデザインの中から、根本スタイルを選んでくれる、それがLID TAILORの客層。“ドゥカティ”や“ヴェスパ”を愛する気もちと、テーラースタイルは重なると私は考える。特別に誂えた服は流行が終わっても、思い入れがあるから大切に着る人が多い。つまり、自分だけのものを大事にする精神が根づいている。いつまでも着続けられる服を作るのが、自分の基本コンセプト。時代に逆行しているかも知れないが、そこに共感して貰える顧客は沢山いるはず」と根本さんは語る。

 仕事で使う道具にも、根本さんのカタチ意識は強く感じられる。LID TAILORを杉並区松庵に開業した時、近所に老舗のテーラーがあった。挨拶に訪ねるとオーナーは90歳、高齢で廃業するのだという。ついては、60年使ったミシンを根本さんに貰って欲しいと願う。年代物で今では入手できない素晴らしいミシン、根本さんは綺麗に磨いて自宅に保管している。いずれは店のシンボルとして店に飾りたいと考えている。ハサミもイギリス製を好んで使う。日本製に比べると切れはよくないが、何ともいえぬ味がある。根本さんのカタチ好きは、テーラーの真髄を追求する源なのかも知れない。「楽しく仕事をするテーラーは、きっとよい服を作る」根本さんは、そう信じて止まない。

 テーラーになる人間は、縫製や物作りが好きとかいうのがベースにある。僕はストリート、モッズから服を始めた人間、だから凝り固まるのが大嫌い。10年後に同じ服を作り続けているか自分でもわからない。毎年よいと思うものが、多様に変わるという発想からだ。

 「僕は『職人一筋』とは、真逆の立場をとっている。勿論、縫製やカットの基礎技術は十分に習得していなければならないが、規則を重んじて縫製服だけを作っていたらテーラーとは言えない。テーラーの仕事は、その上にあると考えている。ネットが発達して要望も多様化している。リッド・テーラー・スタイルと合致する人に来てもらえればよい。誰にもわかって欲しいとは思わない。顧客が、わざわざ西荻まで訪ねてまでもリッド・テーラーの服を買い求めたい。そういう店であり続けたい」

 根本さんは穏やかな人柄だが、秘めたる強さを温存しているように思えた。

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LID TAILOR
BESPOKE SUITS AND SHIRTS

〒167-0054 東京都杉並区松庵 3−31−16 #103

TEL&FAX 03-3334-5551
Mail: lidtailor@jcom.home.ne.jp
http://www.lidtailor.com/


文: 冨澤信浩&鈴木英明
編集: 奥村森
写真: 澤田末吉(ローマ画像)
奥村森(リッド・テーラー画像)

取材日 2016年11月28日


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2016年11月29日 (火曜日)

西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん


縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。

人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。

 

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上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜田川平朗
(読売新聞社発行『人間国宝』より)

これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。

写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。

西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。

窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。


写真館のある風景

昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。

小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。

高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。

ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。

写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。

大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。

助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。

ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

 

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左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん

吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。

文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。

昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

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上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥
(杉並区立郷土博物館所蔵)


写真館が消えた日、時代も変わった

昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

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玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー

 「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。

最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。

 「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。

誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。


記録の行方

スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。

写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。

文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。

写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。

これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

 


文: 奥村森
写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々
高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。 肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。

ー 参考資料 ー
読売新聞社 写真集「人間国宝」

取材日 2016年9月16日


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2016年10月 9日 (日曜日)

バイオリン製作者&修理 桂敏明

Prologue プロローグ

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ベルク・バイオリン工房

或る日、西荻窪駅に向かう裏道に可愛い家が出来た。窓辺にはバイオリンが掛けられ、木製のプランターにバイオリン製作者の名前と年代が焼き付けられていた。
楽器に触れたことの無い者が、覗きたいけれど覗けない世界に、好奇心と畏敬の念とを抱きながら通り過ぎた。私の記憶の中の西荻は洗練されないローカルさがあって、そんな処が「愛すべき西荻」なのだと思っていた。街は少しずつ変わっていく。


バイオリンに関わる人は多いが、製作で飯を食える人は殆どいない

「僕、お客さんとも作業しながらラフな感じでやりますので」
門外漢が記者の大役を任され、緊張で頭の中がひっくりかえったようになっていたが、その言葉で「何もわからないけれど、兎に角食らいつかなければ」と腹を括った。

「Since 1990」とベルク・バイオリン工房のホームページには書かれている。
そんなに前だったかな?・・すると、現在の工房は14年前に出来、以前は一本西側の道の喫茶店の隣の建物の一室にあったそうだ。
「看板がひとつ出ているだけのような感じで。皆、気づかないで」
と奥様の以そ美さんがおっしゃる。
西荻窪に工房を構えたきっかけは全くの偶然だった。場所を探していて西荻窪駅で降り、飛び込んだ不動産屋に紹介された部屋だったそうだ。
「騙されたんですよー(笑)」
その道は近隣住民ですら、あまり通らないのではないだろうか。それでも現在の工房を構えることが出来たのは、桂さんが知る人ぞ知る腕の持ち主ということだ。


偶然が運命を導く時

実は最初からバイオリン製作者になろうとは思ってもいなかったそうだ。或る朝、新聞の求人欄が目に飛び込んできたのである。

「僕は薬剤師になろうと思ってたんです。実は一度、学校に入ったけれど、そこは嫌で辞めて浪人した。でもなかなか通らなくて。いつまでもそうしている訳にもいかないから、大学受験をしながら、筑波の動物園に行って飼育係として働いてなんとかしようと思っていた」
そして筑波へ向かおうという朝。
「朝、新聞配達が来て、見たら『バイオリン(製作者)募集』って書いてあった。それで電話したの。その時言ったのが、才能ないと思ったらすぐに首にしてくれって言ったんですよ」

桂さんの喋り方に、その時の光景が浮かぶ。新たな出発を控えていたのに何故一秒もかからずに決断してしまったのか。
「それバイオリンやってたからですよね」
就職したのは文京区にある文京楽器だった。

桂少年とバイオリンとの出会いは小学校3年の時だった。学校の音楽の時間にテレビ放送を見た。バイオリニストが『赤とんぼ』を弾き、それまで恐く感じていた低音が、
「物凄く、凄く耳にすーっと入ってきて気持ちよかったんです」
話すことの下手だった少年は、教師だったご両親に作文を書かされていた。
「そしたらバイオリンを習うような感じに持ってかれて、バイオリンを習っちゃった!」

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 山本繁一氏                修理を待つバイオリン


結局、一年半位レッスンを受けたが、同じ先生に読売日本交響楽団のバイオリン奏者、同級生の山本繁一氏が習っていたのである。文京楽器に就職した事は、山本さんには黙っていた。ところが文京楽器が『ストラディヴァリウス展』を開催した三越の会場で、二人は再会することになる。演奏者と製作者。偶然に導かれて、二人は改めて良い友となった。

何だ、簡単だなーって思ってたんです

文京楽器は1947年4月、コントラバス専門店としてチャキ弦楽器を創業。1965年総合弦楽器専門店としてバイオリン・ヴィオラ・チェロの直輸入を開始した。1975年ストラディバリウスを初めて販売する(文京楽器ホームページより)

桂さんが入社したのは、文京楽器の社長ご子息がドイツ(ミッテンバルト)のバイオリン製作学校から帰国、バイオリン製作販売を創めた頃だという。社長も含めて職人しかいない会社で、おべっかを一切使わず、プロの演奏家に対しても「こんな使い方してはいけない!」などと怒鳴ったりしていたそうである。それだけ技術に厳しい修理を土台にしたバイオリン店だったのだ。
 

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              桂敏明さん


「一番良かったのが、ギターとかコントラバスとかの修理を土台にしてた店だったんで、歴史の流れとしては凄くいい」

バイオリンは16世紀初頭頃から、少しずつ作られ始めたと考えられている。それ以前はギターやリュートがあり、それらの技術を持っていた人がバイオリンを作るようになったのではないかと言う。
「だから向こうのバイオリン製作者のことをリューテリアって言うんですよ」

バイオリンのことを全く知らないから、構造から一生懸命に説明してくださる。
「部材は裏板、表板、横板、ネック、指板。たったこれだけで。だから初めバイオリン工房に入った時、何だ簡単だな、って思ってたんです」。「あーな~んだ、これくらいじゃんって」
ところが十数名で修業を始めたのに、途中で脱落していき、工房で一人位しかできるようにならなかったという。はじめは製作が進み、変化がわかる。しかし次第にミリ単位以下を削っていく作業になるから、強い精神力が必要となるのだそうだ。
「頭にずーっと重しを乗っけられて上から乗られている感じ」
余りのストレスに自転車に乗って大声で歌いながら家路に着いたりした。昼間の仕事が終わってからの妥協のない修業に皆、次々と脱落していったのだ。

形が音なんです

「最初に本物を見ることが一番大事ですね?」聞いてみる。
文京楽器には当時、日本一、最高の楽器が来ていると言われていたそうだが、桂さんは「ほんとかよ?」と思っていたそうだ。実際に本物のアマティなど、クレモナへ見に行くよりも沢山の楽器が、日本に来ていたそうである。
次第に話が熱中してきて桂さんが「隆起、撮りますか?」とおっしゃる。「隆起」とは修理の際等に、バイオリンの表面を石膏型に取ったもので、製作の際に「流れ」を見ながら作るそうである。

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「これなんかさあ、ストラド、の本物の隆起」「1730年のマリーン」。
「隆起をずーっと穴が開くほど見るっていう。見ることが一番大事。この隆起っていうのは大体流れ、これ自体が音なんですよね。だから本物を見ろって言われたのはそういう事で、そうすると偽物があったときにわかるっていうんです。本物って綺麗な感じだから。プロは見て買うの。なんでかっていうと弾いた音がその音じゃないですから」

楽器は作って直ぐに鳴るわけではないのだそうだ。出来た時点で鳴るともうそれは駄目で、鳴らなくなるとはっきり判る。

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「職人は500年鳴るように作りたい。だから直ぐ鳴るようには作っちゃ駄目だし、ず~っと弾いてて鳴るようには作んなきゃいけないですよね」
音は成長するのだそうだ。どんどんどんどん変わってきて5年目位から少しずつ良くなって来るが、直ぐ鳴る楽器はそこが精いっぱいで、だんだん悪くなるのだと言う。そして楽器は弾かなくなるとすぐ駄目になると言われるが、それは二つの意味があるのだと言う。一つは本当に割れたり、変形したりする事。だがもう一つ、楽器が演奏家の音を忘れてしまう「眠る」というのがあるのだそうだ。弾けば弾くほど楽器は起き上がって、音の天井は上がっていく。それに合わせて奏者も変わっていく。又楽器も変わっていく。人間関係と似ているのだと桂さんは言う。
「だって人の気持ちもわからないようだったら、楽器の気持ちもわからないでしょ」

「ストラディヴァリのような偉大な製作者も、クレモナという地域がなく一人で製作していたら、あのようなバイオリンは出来ていない。時代背景とかそういったものが作らせたし、民衆がこういうのが欲しいって言って作らせただろうし。もっと早い時代に生まれていたらたぶん出来ていなくて、与えられた環境の中で頑張った。つまり才能を与えられたのは自分の努力だけではないから、自分だけでは出来ていなかったよ、たぶん」と桂さんは言う。

桂さんは熊本の出身だ。教師だったご両親は親の言う事を全然聞かない、むしろ反対の事をわざとやる息子に当惑していたようだ。

以そ美さんは言う。
「たとえば普通の人が何かをやりたいと思っても、何かにぶつかるなあと思ったらそこを諦めたり、避けたりするんだけれど、そういう障害は障害と感じない。この道が一番と決めたら、ダメだったらこっちから、それもだめならこっちからと結局やり通していくところが、主人は普通じゃない」

桂さんは、
「警戒心はあるし、安全な方を取ってるでしょ?」
とおっしゃるが、結局、最後には隔世遺伝、その性格は祖父似ではないかと認めざる を得ないところに、奥様と私たちの会話は行きついてしまった。


ベルク・バイオリン工房の志 ~ フレンドリーマインド ~

そういう桂さんが工房を構えて知りたかった事は、「職人は敷居が高くなければならないのか?」という事だった。事業を創める目標の一つが、世間的な常識に対しての疑問を解くもしくは解決しようと試みる事だ、いうのはとてもよく判る。独立したら、みずからの力で周囲の賛意を得、事業を継続していかなければならない。だからこそ試し、チャレンジしていく事がひとつのパワーになるのだ。
実際に桂さんが海外の一流と言われる製作者に会って話を聞くと、みな結構フレンドリーだったそうだ。

「で、それを実行してます」

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 左:以そ美さん 右:敏明さん


「ベルク」はドイツ語で「山」の意味。好きだった山登りとバイオリンも山の木から生まれることから名付けたそうだ。工房の壁の色は、イタリアでさまざまな家の色を写真に収めて来たそうだ。さすがこだわり方が半端じゃない。話は取材の枠を超えてどんどん熱を帯びてしまった。

ぶらり取材体験をきっかけに、これまで縁のない世界を訪ねる事の出来た私達は幸せ、そう感じながら工房を後にした。ここに書けなかった山ほどの貴重なお話、
それはいずれ又!


ベルク・バイオリン工房
Maker & Restorer 桂 敏明
住所:東京都杉並区松庵3−39−3
電話:03-3334-7179

営業時間:10:00-20:00
定休日:日,月曜日
・JR西荻窪南口より徒歩4分

文章 窪田幸子
写真 奥村森
取材日 2016年6月28日


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2016年9月12日 (月曜日)

杉並区立郷土博物館を訪ねて

杉並区立郷土博物館をご存じだろうか。
初めて博物館本館を訪ねた時。曇り空に雨傘を忘れて、閉館間際の降り出した雨に途方に暮れていると、職員さんが使い捨てていいからとビニール傘をくださった。それが印象に深く刻み込まれている。

「西荻春秋」がスタートして初めて「公的施設を取材したい」という話になった。
いつも試行錯誤。体当たりで取材許可を取りに行く。候補にあがったのが郷土博物館だ。記事を書くには熱意と興味と好奇心が必要で、自らの体験と重ね合わせてどこか共感できないと言葉にならない。編集長が体当たりすると、博物館は快く対応してくださり、駒見敬祐さん、小室綾さんの二人の学芸員さんにお話を伺うことになった。


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右:駒見敬祐さん 左:小室綾さん


企画展「すぎなみ郷土史物語」

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博物館正門(井口家長屋門)

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博物館 常設展示室

博物館に着くと、駒見さんが、企画展「すぎなみ郷土史物語」を案内してくださった。企画を担当された展覧会で、郷土博物館ができた理由を知りたいと伝えると、「まさに今、その展覧会をしています」とのお話だ。実は私事だが、この3月に学芸員資格を取得したばかりである。地域の博物館を学習調査したが、インターネット上に情報が少なく、とあるページに唯一以前の館長の言葉として「失われていく郷土の姿を残したいと願った」と書かれていたのが気になっていたのだ。
博物館設立には、きっと理由があるのではないかと探ってみると、案の定、そこには感動の物語が隠されていた。それは想像していたよりずっと長い積み重ねの上に、地域の研究者や住民の請願により実現したものだった。
駒見敬祐さんは中世史が専門で、修士課程を修了されている。学芸員の任用は狭き門だ。若いが、学問を人の役に立てるためには「伝える」仕事がしたいと話し、展覧コンセプトからはその熱き思いが伝わる。

企画展「すぎなみ郷土史物語」
平成28年7月23日(土)~9月25日(日)本館企画展示室

展覧会の企画は基本的には学芸員が主体となり、博物館では年に1回の特別展と2回の企画展、常設展で年間を構成している。予算もさることながら、学芸員5人体制でも年間120日程度の勤務だから忙しく、新しい事実を発掘する研究にまではなかなか手が回らない。それでも「すぎなみ郷土史物語」展は「なぜ杉並区に郷土博物館ができたのか」「なぜこの地に設置されたのか」、そして地道に郷土史を遺そうと奮闘した人々がいたことが理解できる、正統派の展覧会だ。これが駒見さんらしさだろう。


学芸員として

小室さんも文化財保存が専門なのだが、なかなか任用がないのだという。地域を回って屋敷林の調査等もされているそうで、ほんわりした人あたりの良さが魅力だ。少しでも博物館に興味を持ってもらおうと、まずはキッカケを作るため、幅広い年代が足を運ぶアイデア作りに日々奮闘している。共通して感じるのは静かだが強い思いだ。

研究に手が回らないと書いたが、学芸員としてどのように関わっているか尋ねてみた。「ここには区民自身の長い調査と研究の蓄積があり、その厚さ深さに、数年勉強したくらいでは学芸員はとても追い付けないのです」と小室さんは素直に語ってくれた。「だから地域の人々の研究を、学芸員の視点でサポートすることが私たちの仕事だと考えています」という。これまでの地域史研究は研究者が地域民と共に活動してきた。杉並区民ではないおふたりが一生懸命すぎなみのことを考えている姿を見ると、折角、博物館ができたのだから、上手に学芸員の視点を活かすことはできないものだろうかと考えた。

「杉並は日本史に残るような事象はあまり多くないけれど、そこに「人がいる」それが特徴ではないでしょうか?」小室綾さんは言う。

郷土博物館には5人の学芸員が嘱託として在籍しているそうだ。区民の研究蓄積はこれからも深まるとしても環境は次第に変化していく。「郷土」は過去だけにあるのでなく、現在、学芸員が活動していることも将来にもつながる大切なアーカイブを行える可能性があるのであって、その力を借りて沢山の「ひと」がいる郷土をこれからも息長く耕し、発掘し、研究していくことが重要なのではないだろうか。
区民との連携の下に専門分野を深め、より広い視野で次の時代にも保存すべき歴史資料を発見し、区民の心のよりどころの一つとなるよう、継続、安定した仕事ができる環境を整えて欲しい。「人がいる」杉並は「人を大切にする」杉並区として魅力を深めて欲しい。


周りの環境も博物館

駒見さんは、博物館は周辺の環境も含めて「博物館」なのだという。また「名前には深い想いが込められているのです」という。杉並にも「郷土」があった。その風景や暮らしも時代の波に呑まれて、急速に消え失せていくことに気づいた人々が、調査保存の草の根の活動を脈々と続け、博物館設立請願へと繋がったのである。

郷土博物館本館は平成元年、和田堀公園内にオープンした。京王井の頭線の永福町駅北口から徒歩15分。JR中央線高円寺駅又は東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅から「永福町」行きバスで「都立和田堀公園」下車、徒歩5分等。あまり便利とはいえない場所に博物館はある。計画にあたって旧養蚕試験場、現在の蚕糸の森公園(東京メトロ 東高円寺駅)も候補に挙がったという。それでも博物館以前の地域史研究を積み重ねてきた人々は、明治時代から昭和まで繰り返してきた遺跡発掘調査や歴史的景観を含めた周囲の環境までを含めて博物館の立地条件としたいと望んだ。それが、博物館が和田堀公園内、旧嵯峨侯爵邸跡地に設置された理由なのだという。

駅に近い便利な場所の方が、人が来るように思えたが、調べてみると区内の学校の見学等での利用も含め、入館者数に遜色はない。それは博物館というものが、わたしたちにとってどのような存在なのかを改めて考えさせられる発見であった。

東は谷中公園、済美公園から和田堀公園、西は善福寺川緑地公園に至るまで、時として広々とした草地など驚くような風景が広がる、公園ではあるが人が管理しきれない自然をいまだどこかに隠しているような環境である。杉並区の遺跡マップなどを見ると、川に沿って見事に遺跡が連なる。過去を想像しながら散策してみたい。


懐かしい記憶とともに

さて、土日祝日の午後に博物館を訪れると古民家のいろりに火が入る。また昔、行われていた年中行事を再現している。9月10日(土)~19日(月・祝)は十五夜、10月22日(土)~30日(日)は荒神様だ。我が家ではかつてほぼ同じ時期に荒神様とえびす講をしていた。荒神様には松と榊を上げ、えびす講には尾頭付きの鯛を二尾飾り、うどんをあげて、大きな枡に家族の全員のお財布を入れた。カチカチと父が神棚と私たちの頭にも火打石を打ち、子供のお財布の中身はちょっとだけ増える。それが嬉しく家族全員で食卓を囲んだ。
行事は気が付くといつのまにか記憶から失われてしまっている。だから区民の協力で再現されることは、貴重な行事の保存そのものだろう。

博物館は多くの人が関わっていのちを吹き込まれる「場」だ。ほんのひとときを過ごす来館者もそのひとり。そんな余韻を感じながら郷土博物館を後にした。


杉並区立郷土博物館(本館)
〒168-0061 東京都杉並区大宮1丁目20番8号
電話 03-3317-0841

開館時間:午前9時~午後5時
休館日:毎週月曜日・毎月第三木曜日
(祝日と重なった場合は開館、翌日休館)
12月28日~1月4日
観覧料:100円 中学生以下は無料

文・窪田幸子(牛の歩み資料美術館準備室長 学芸員)
写真・奥村森


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2016年7月26日 (火曜日)

緩やかな時間が流れるジーンズショップ 「オークランド」

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西荻窪駅の南口を出て、ピンクの象さんで知られる仲通り商店街に入る。その右手、象さんの横にあるのがオークランドである。

店に入ると心地よい音楽が流れ、どこかリラックスした雰囲気が漂う。カジュアルな衣料と共にジェームス ディーンのポスター、古時計、そしてラグビーボールが目に止まる。

店主は二代目の多田裕昭さん。裕昭さんの父、貞蔵(ていぞう)さんがアメリカの中古衣料を扱う店をここで始めた。昭和26年のことである。裕昭さんが生まれた年だ。今年で65年になる。

貞蔵さんは山形から上京し、苦学して蒲田の工業高校を卒業した後、東京の会社に職を得た。そして戦後すぐ、貞蔵さんの兄が呉服屋をやっていた西荻窪の今の場所に移り住み、商売を始めた。


アメリカの中古衣料が出発点。お店は繁盛しました

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「戦争が終わってあまり着るものがなかった時代だったんですね。アメリカの中古衣料をこっちへ送ってきて、洗い場に行って洗ったり、プレスしたり、直したりしてお店に出していました。今では中古屋さんは多いですけど、その頃はそんなになかったのでお店は繁盛していました」

朝は9時くらいから夜は11時まで働き、お店を閉めてからも値札をつけたりして、夜中の1時くらいまで裕昭さんのお母さんたちは働いたそうである。

「西荻の店をやっていた私が小さかった頃、バザーといって宇都宮だとか日本各地の体育館にトラックでいろいろな品物を運んでは売っていました。品物がない時代だから物凄く売れた」

「西荻の店では従業員含めて12人くらい寝泊まりしていました。開店して間もない頃、オープンリールと言ってテープデッキなんて珍しかった時代、大きなテープに案内を録音してトラックで街を廻って、体育館でバザーをやってたんですね。だから、ちっちゃい頃はほとんど家に居なかった。帰ってくるといろいろな玩具をいっぱい買ってきてくれましたね。相当なワンマン社長でしたが、涙もろくて熱い人でした」

西荻の店が好評で、山手線の大塚の駅前と、荻窪(現在のタウンセブンの地下に当たる場所)と合わせて三軒の店を構えた。また別荘を千葉の御宿、そして山形の蔵王のそばに持ち、夏は御宿、冬は蔵王と、裕昭さんは夏も冬も真っ黒になるほど色々と連れて行ってもらったという。

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父は武道が好きでした

「父はもともと剣道とか柔道など武道が大好きでした。高井戸第四小学校というところに僕達(裕昭さんは姉、裕昭さん、妹、弟の四人兄弟)は行ってたんですが、そこでPTAの会長に就いたのがきっかけとなり、剣道教室(尚武会)を始めました。それが今年で50周年を迎え、今では大会で優勝するようになりました。居合は段を持っていて、明治大学(白さぎ会)で教えていました」


昭和48年、ジーンズだけを扱うお店に。そして一番忙しい時期を迎える

「昭和48年、僕が学校を出たくらいからジーンズだけのお店に変えました。その頃はエドウィンとかビッグジョンとか日本のメーカーがどんどん出始めた時です。昔、エドウィンの常見さんという社長さんとお友達で、一緒にやっていた関係でジーンズだけにしたのです。その当時はね、ジーンズブームということもあり、大学生がアルバイトをさせて欲しいと随分来てましたね。この店もアルバイトが沢山いました。大塚の店も含めると、一番多い時には20人くらいいたのかな」

「僕が大学を出る頃はジーンズが日本中流行っていました。丁度その頃、ベトナム戦争が終わってアメ横で軍隊の払い下げのカーキ色のジャケットを売っていました。アメリカで安く仕入れて日本に持ってくると、ものすごく売れたんです。いろんな階級章が付いていたりして。それがその当時の反戦運動の象徴でしたから、多くの人が買いに来ました」


自然な流れで家業を継ぐことに

「僕は教職をとって先生になろうと思っていました。だけど、当時学校に行っても、教室に全学連が入ってきて授業が中止になり、ちゃんとレポートを提出すれば教職課程も取れたんだろうけど、お店が忙しいので手伝わなきゃどうにもならない状況でした。そうして自然に家業に携わるようになりました。大塚の店は人が少なかったので大変でした。カレーうどんが好きで出前を頼んだのですが、忙しくて食べる暇がない。夕方にやっと箸を入れると、そのままカレーうどんが持ち上がったということがありました」

「昭和57年に、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ラグビーがとても好きだったので、オールブラックスの国に行ってみたかったのです。その時にオークランドという町に行きました。とても綺麗な街でした。その名前が今の屋号の由来です。アルファベットの木工文字を買ってきて、それとニュージーランドの国鳥であるキーウィーを元に自分でアレンジしました」

「オークランドと命名するまではつるや貿易という名前でした。昔ジーンズのお店はみんな何々貿易っていう名前を付けてたんですよね。うちも法人名としては残っています。屋号はオークランド。昔僕が小さい時はアメリカ屋という屋号を使ってました。アメリカ屋は昔、ジーンズショップの総称みたいな感じでした」

「子供の頃、小学校にジーンズを履いていったら、ジーパンは普通の洋服よりも格下のイメージだったんでしょうね。子供心にちょっと馬鹿にされていたのかなという気がしました。酷いいじめのようなものではなかったですが、アメリカの作業服を売っているお店は、普通の衣料品店より格が下といったイメージがあったのでしょう」


ジーンズもトップ3の時代から新しい時代へ

「昭和48年、一番忙しい時期を過ぎ、それからいろんなメーカーがジーンズを売り始めました。40年を過ぎ、ユニクロやギャップというような大型店に替わっていった。現在、うちは日本で初めて国産ジーンズを作った岡山のメーカーKappaジーンズを扱っています。シリアルナンバー入りで、職人がひとつひとつ手作りで縫製した、こだわりのジーンズです」

ジーンズ以外で主に扱っているのは、男性はUniversity of Oxford、女性はブルーベルというブランドだ。これまでいろいろなブランドを扱ってきたが、この二つのブランドが西荻窪の顧客にぴたりとはまり、喜ばれているそうだ。


父にはいつもお説教をされていた気がする

「うちの父は苦労して商売をしてきた人だからいつも僕が言われたのは、お前は真剣に生きてないって、その言葉はちょっと違うかもしれないけど、なんか人生をなめているみたいなことをいつも言っていました。いつもお説教をされたような気がします。とにかくお説教が大好きでした。まあ、それだけ心配だったんだろうと思います」

西荻窪はみんなゆったり、のんびりしているように思うと裕昭さん。「阿佐ヶ谷辺りと比べると、やる気があんのと言われちゃうけど、その代表だね。私は」と笑う。長く続く秘訣はと訊くと「うーん、なんだろう、流されるままにかな」

この店の何処か緩やかな時間が流れる、リラックスできる雰囲気の理由がわかったような気がした。

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ジーンズショップ オークランド
住所:東京都杉並区西荻南3−10−10
電話:03-3333-6032

営業時間:12:00-22:00
定休日:元日のみ
・JR西荻窪南口 仲通り商店街

文章 小野由美子
写真 小野英夫


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