見聞・荻窪風土記――—相沢堀の巻


 八丁から青梅街道を歩いて、と言いたいところだが、荻窪から地下鉄に乗って一駅の南阿佐ヶ谷駅で降りて相沢堀をたどっていくことにした。向かう先は高円寺、中野方面だ。新潮文庫版の『荻窪風土記』(23頁)に「今、八丁通りと平行に地下に潜っているクリークは、大震災前にはきれいな水が流れていた。その用水が今の公正堂ゼロックス店のところで……阿佐ヶ谷に向けて分流する用水」と書かれているのが相沢堀で、「相沢堀は、今の杉並区役所の手前のところから阿佐ヶ谷田圃へ入り、東流して高円寺、中野を通り(桃園川)新井、落合に流れ、昔の神田上水の神田川に合流、関口大滝のドンドンで早稲田の蟹川を暗渠で合流させている」とある。

 

逆U字杭を探す


29a7b04f055d48edafd63f1d810e28c1

杉並区立第七小学校

 地下鉄南阿佐ヶ谷駅で降りて地上に出れば、そこは杉並区役所のそば、「杉並区役所の手前のところ」とはどの辺りになるのか?青梅街道を荻窪方面に戻ることになるが、そこここにある案内板ではまるで分らない。行き当たりばったりでは迷子になるだけだ。便利なネットで調べてみると、阿佐谷南3-9辺りが、「杉並区役所の手前」になるのではないかと、見当をつける。住居表示を確かめながら歩いて行くと、あった。成田東5丁目の信号のところだ。右に曲がるとすぐ、杉並区立第七小学校につきあたる。左手の角の建物には「日本大学相撲部」の看板が下がっていた。この間の道に立って左右を見回すと左手に、暗渠の印だと,八丁の取材時にお世話になった志村さんから教わった逆U字型の車止めがたっている。その後ろの暗渠の上には杉並土木事務所と手書きで書かれた鉄板がかぶせてあった。そこから上流方向に向かえば青梅街道に出られるかと思って歩いて行くと、すぐに突き当たって右に折れた道は50㍍ほどで行き止まりになっていた。相沢堀に間違いないな、と思いながら戻ってくると、小学校の校庭で遊んでいた女の子が「おじさんたち何してるの?」と金網越しに聞いてきた。カメラやメモ帳を持ったオヤジたちがうろうろしているのが、その子の好奇心をかき立てたのだろうか。「川を探しているの」と答えると、「ここに川なんてないよ」、と即座に返ってきた。「いいの、あるんだからさ」とは言わなかった。相沢堀はこの小学校の校庭の下をほぼ対角線上にくぐって流れているということなので、学校の塀沿いに廻ることにした。


001

日本大学相撲部

 学校の塀は途切れて途中から住宅街になってしまうので不安になるが、小学校の先の角を右手に折れて阿佐ヶ谷方向に向かっている通りに入った。直ぐ、右手奥に暗渠らしき道が見えたところで曲がってみると、逆U字型の車止めがあったので一安心。そこで川上に行く道は狭くなっていて、その路の左側には背の低い木が茂り、右側に立ち並ぶ家々はみな庭が路に面している。まさに川にふたをして道にしたという様がそのまま見てとれる。とりあえず奥まで行って、確かに小学校の塀から出て来た川ということを確認して逆U字杭に引き返した。


002

杉並区立第七小学校裏手

 そこから今度は逆に、川下方向に向かう広い道をたどることにした。かつて道路の横を流れていた相沢堀を暗渠にしたせいなのだろう。その分、道が広がっている。歩いている我々の左手に暗渠部分がある。右手に並ぶ家の玄関はこの道路に面していて、左手に並んだ家は庭が道に接している。こういう場所はいいのだけれど、もともと川だけが流れていて両岸が人家というところを暗渠にされてしまうと困ったりしないだろうか。遊歩道として利用されると、そこを歩く人に家の裏側を覗き見られる格好になる。住む人たちは落ち着かない気持ちがするのではないかと、よけいな心配をしたりするのだけれども、どうなのだろうか。そんなことを思いながら歩いたが、当時の阿佐ヶ谷田圃の様子を思い浮かべるすべもなく、緩やかにカーブする道には人家が続き、それも集合住宅が多く、ただただ東京近郊の都市化のすさまじさに、あらためて感じ入るばかりだった。


003

暗渠の印の逆U字型の車止め

JR阿佐ヶ谷駅までで


006

釣り堀とちゃんこ田中
 その家並が切れて少し開けたところに、釣り堀「寿々木園」があった。看板に1時間600円(さお、エサ込み)とある。年配の人に交じって家族連れや若いカップルでにぎわっていた。釣人井伏鱒二に似ている人はいるかな、と横目で探しながら通り過ぎると、商店が並ぶかわばた通りにぶつかる。この通りを横切った数軒先が、日本大学の田中理事長の奥さんが経営しているというちゃんこ屋だ。相撲番付と同じ書体で書かれた看板「たなか」の文字が飛び込んでくる。ここまでの相沢堀は、日大相撲部通りと言ってもいいぐらいかな。ちゃんこはまたの機会にして、かわばた通りを左に入って行くと阿佐ヶ谷駅西口高架下で、その手前にまた逆U字杭を見つけることができる。そこからJR中央線に沿って相沢堀は流れていくが、その先はもう阿佐ヶ谷駅、中杉通りを越えた駅ビルの向こう端から暗渠はさらにつづく。とりあえず、その場所を確認したところで我々取材班は、相沢堀探訪をここまでにして、荻窪に帰ることにした。ただ電車で帰るのではなく、井伏鱒二が歩いた同じ道で徒歩で行こうとしたのだが。

 彼が、「昭和二年の五月上旬、大体のところ荻窪へ転居することにして阿佐ヶ谷の駅から北口に出て、荻窪のほうに向けてぶらぶら歩いて行った。突きあたりの右手に鬱蒼と茂った天祖神社の森というスギの密林があって左手にある路傍の平屋に横光利一の表札があった。横光は流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われていた。」(新潮文庫版、18頁)と、書いてある道を歩いてみようという気を起こしたわけだ。しかし事前になにも調べずに、いきなりその道を歩こうとするのは無理である。まず行くべきところは図書館だった。


天祖神社と横光邸


 後日、『杉並町全図 昭和三年』『同 昭和六年』で調べてみると、六年版の地図に、駅近くに天祖神社の記載がある。現在の神明宮である。神明宮発行の「参拝の栞」には、主祭神は天照大御神で、平成2年、社号を天祖神社より創建時の神明宮へと複称と、記されていて、このお宮が以前、天祖神社とよばれていたことがわかった。

004

荻窪風土記の中の「天祖神社」 現在の「神明宮」

 森泰樹の『杉並風土記』には、「河北病院五十年の歩み」に書かれた中島善四郎の次の一文が紹介されている。「昭和の始めの頃の阿佐ヶ谷、特に四丁目(現在の北一丁目)を私は気に入っていた。……森に朝霧がかかると、湿地の芦叢ではヨシキリが鳴く。一日中鳴くのであった。土用になると暁方と夕方には相沢さんの杉森、天祖神社の杉森、世尊院の杉森、この三つの大杉森で一斉にヒグラシが泣き出す。……」と。鬱蒼と茂った天祖神社の森が当時、どんな様子だったのか、知ることができる。

005

神明宮の桜

 そこで横光利一の家は、上に引いた井伏の文章によれば、天祖神社の向かいに位置するように読めるが、通りを挟んで向かい合うというような位置関係ではなかった。『炉辺閑話―杉並郷土博物館だより 第27号』に、昭和2年、横光が住んでいたのは杉並町阿佐ヶ谷290番地(現・阿佐ヶ谷北3丁目)であった、と本橋宏己が書いている。三年版の地図で探すと、阿佐ヶ谷北3-5辺りである。その住いについて、『横光利一全集』(改造社)の月報に竹野長次が次のように綴っている。「私が横光君とお會ひしたのは昭和二年の夏の初頃であったとおぼえてゐる。その頃、君は阿佐ヶ谷に住んで居られた。驛を降りて北の方に進むと尼寺があって、杉の森があった。その森の緑に添ってなほ北に三四丁程行くと、左の方に真直ぐに伸びてゐる路があり、その路は『玉野』といふ地主の家のある森の中を横切っていた。その森を出はずれたところに、左側にやゝ南傾斜になった二百坪許りの宅地があり、そこに四十坪餘の家が建ててあった。それが横光君が新しい奥さんと楽しい夢を結ばれた思い出深い住居であった」。

 ついでに言うと、その住いを見つけるにあたっては、当時菊池寛家の書生をしていた那珂孝平が横光に頼まれて手伝っていた。那珂はその家について、「家賃五十園で五間のかなり大きな家を借りた。……横光さんはその年震災前に『日輪』『蠅』『マルクスの審判』などを発表して新進作家の地歩を固めていた。」と、思い出を語っている(『定本横光利一全集』月報6、河出書房新社)。

 あらためて地図を片手に阿佐ヶ谷駅北口から歩いてみた。駅前のバスターミナルを渡って、ビルの中の北口アーケード街を抜けて、やや左に曲がる道を北に向かった。この道は旧中杉通りだが、松山通りと街灯に表示されている。商店がずっと続いて賑やかだ。

007

法仙庵

 少し行くと、この通りに面した法仙庵というお寺につく。門前に掲示されている縁起には、「その初めは文久年間(1861‐63)阿佐谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり……作った共同墓地です。そして、墓地管理のため、江戸浅草・海雲寺(…)末寺・観音庵(…)より実山見道尼を初代庵主として請じて、開創したのが当庵です」(杉並教育委員会)、と説明されていた。まさに尼寺だ。さらに、「東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で練馬円光院子の権現(貫井5-7-3)におまいりに行く参詣道でした」と、書かれていた。商店街になっているこの道はかつての参詣道であったのだ。ちなみに、相沢堀はこの名主の相沢喜兵衛の名前である。法仙庵を過ぎて3、400メートル(1丁を約100メートルとすれば)行って、そのあたりで左に折れる真直ぐな道を探すと、ありました。多分、この道だろうと見当をつけて歩いて行くと、『玉野』の表札がかかったお屋敷があらわれ、その先の左手に竹野氏が書かれたような南傾斜の土地がある。横光邸のあとをしのぶことのできるような痕跡や記念碑らしきものは何もないので、確かめようもないが、多分ここがそうなのだろう。緩やかな傾斜を降りてみると、この宅地の裏手には大きな銀杏の木が一本そびえ立っている。樹齢何年かわからないが、その当時から生えていた木々の生き残りではないだろうか。井伏の歩く姿を見ていたかもしれない。井伏がたどった道はこの道でまず間違いないだろう。

008

横光邸へ向かう一本道


唐草模様のカーテンの明かり


 ところで、この時、井伏は横光の家に寄ることはなかった。二人はその頃、どういう付き合いをしていたのだろうか、そもそも付き合っていたのだろうか、という疑問がわいた。井伏と横光は早稲田大学文学部仏文学科の同級生、お互いに明治31年生まれの同い年だ。さらに言えば文学の師も佐藤春夫で同じであった。もし親しい間柄ならば、突然訪ねてもおかしくはないのではないかと思い、そのあたり少し調べてみた。

 横光は自分の学生時代について「富ノ澤麟太郎」という随筆で語っている。「彼(注・富ノ澤のこと)は私とは同じクラスであったが初め私は彼を少しも知らなかった。私の組には常に一室に二百人近くもゐたからだ。……私は滅多に自分から友人や人々を訪問したことはなかった。その頃私は外へさえ出歩いたこととてなく、学校でも人々と言葉を交えたことさえ殆どなかったにも拘わらず、彼の場合だけは私から彼の下宿へ突然に訪問した」(『文藝時代』、大正十四年五月号)と。二人は話が合って、これをきっかけにして親しい仲となるが、横光がこれでは、同級生でも俺、お前と気安く呼び合えるような関係になるのは、難しいだろうなと思われる。

 井伏も「富ノ澤麟太郎」(『新潮』、昭和44年1月号)と、同じ題で書いている。そこには、銭湯で友人から富ノ澤を、「佐藤さん(注:春夫のこと)のお弟子さんで、横光利一の親友だ」と、紹介される場面がある。『荻窪風土記』でも井伏、横光、そして二人の共通の友人富ノ澤が新大学令で同じクラスになった、と出てくるけれども、二つの「冨ノ澤麟太郎」も含めいずれにも、それぞれの関係が発展して三人一緒の付き合いが始まるようなことは書かれていない。(『荻窪風土記』の「荻窪(七賢人)」の章で、横光の一周忌の帰りに寄った魚金で、そこの細君のはなしとして、横光と富ノ澤の二人が登場する)。

 井伏が書いたものをいくつか読んでみると、どうも横光との関係は薄かったようにみられるが、そのなかでも彼の気持ちがよく表れていると思われるのが、「阿佐ヶ谷時代の横光氏のこと」と題した随筆の次の個所であろう。「私は阿佐ヶ谷時代の故人のことは幾らか知ってゐる。書斎の窓に唐草模様のカーテンが掛けてあった。どんなに夜ふけに通っても、そのカーテンのところにだけは明かりがさしてゐた。たいてい夜ふけて私がそこを通るのは、阿佐ヶ谷あたりで酒をのんで歩いて帰る場合が多かった。私は唐草模様のカーテンの明るみを見て『またブレーキがついてゐる』とよく思った。人にも実際たびたびそう云ったことである。ブレーキとは、こちらの堕落を防ぐブレーキの意味である。故人の存在は私には堕落を防ぐブレーキであった。そのころも私が堕落しきることができなかったのは、このブレーキが可成り効きめがあったやうに思はれる。」(『風雪』昭和23年4月号)

 また同じ時期に書かれた次の文章からも、彼の横光に対する気持ちを読み取ることができる。昭和23年8月、『新大阪』という新聞に、井伏は「菊池・横光・太宰を想う ――新盆を迎えて」題した一文を3日、4日、5日の3日間にわたって寄せている(横光は昭和22年12月、菊池は23年3月、太宰は同年6月に亡くなっている)。そこで横光のことを次のように書いて偲んでいる。「……したがって七年近くの間に、それも甲州でたった一度しか会わなかった計算になる。そんなに私と横光氏との個人的交渉は薄かったが、この人の存在は私にはいつも一つの目標となっていた。出処進退に何か清潔な感じがあって、孤高を念じている人とわたしは見ていたからである。自分ではそれを真似ようとはしなかったが、作家の態度として現今また得難いものと見て、その意味で目標にしていたのである。」井伏はまた、このようにも言っている。大正十二年に横光が長編『日輪』を発表して、大きな反響を呼び、「時めく花形作家になって、私の生涯のうちで、こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。」(同文庫版、56頁)と。

 こうしてみれば、当時、文学青年であった井伏が、「流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われ」、すでに注文原稿を書いていた横光に、同級生意識などを持つことなかったろうし、また親しい付き合いをする仲でもなかったと思われる。阿佐ヶ谷の横光の家に昼間でも訪れることはなかった。ただ、この唐草模様の明かりが、井伏の心のなかで灯り続けていたのではないだろうか。

 井伏の阿佐ヶ谷駅から自宅にむかう足取りを確認できたことに満足して、天沼を抜けて彼の家のあった清水には向かわず、夏の陽に照らされた道を歩いて、荻窪駅に出た

文:鈴木英明
写真:澤田末吉

取材日:2018年3月26日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2019年2月12日 (火曜日)

地域に在るお寺として~慈雲山荻寺光明院・副住職田代弘尚さん~


“荻寺”の発展


 JR・東京メトロ丸ノ内線荻窪駅の西口を出て、商店街に沿って西へ進んだところに、「荻窪最古」の言い伝えをもつ古刹がある。それが慈雲山荻寺光明院である。
 光明院のかまえは、JRに乗っていても目に入る。中央線の線路にそって歩く人たちは、知ってか知らず、光明院の境内を東西に横切る「荻の小径」をたどっていく。光明院は地域に開かれた寺院だ。

001

光明院本堂

 和銅元年(708)、一人の行者が、行基菩薩が作ったという千手観音像を背負ってこの場所を通りかかった。すると不思議なことに、突然背負った仏像が重くなり、動かなくなってしまった。「きっとこの尊像は、この地をお気に入りになり、離れたくないのだろう」そう考えた行者は、付近に生えていた“荻”をあつめて、小さな草堂を作った。これが光明院の始まりであると、お寺の縁起では伝えている。これが“荻窪”地名の発祥であるともされている。

 光明院の概要については、19世紀初頭に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には以下のようにある。

 青梅街道の内にあり。慈雲院と号す。新義真言宗にて、中野村宝仙寺の末。客殿五間半に六間、東向なり。本尊千手観音の塑像を安置す。長三尺八寸、開山開基詳ならず。されど当寺世代の僧権僧都弁教は、寛文六年三月に寂せりと云えば、それより前の起立なること知べし。(読みやすいように旧字は新字に、カナはひらがなに直した)

 今の時代、地域のなかでお寺はどのように地域と接しているのだろうか。ぜひともお寺の人にこのことを取材したい。それを大きな動機として、光明院に取材を依頼したところ、快く応じてくださった。

005

光明院の副住職 田代弘尚さん

 今回、取材させていただいたのは、光明院の副住職田代弘尚さん。現在の光明院のご住職、田代弘興氏は、真言宗豊山派の管長(一宗一派を代表する最高責任者のこと)を務めていて、真言宗豊山派の総本山長谷寺(奈良県桜井市)にいらっしゃり、光明院は副住職さんが今は守っている。

 お寺の雰囲気に少し緊張してうかがう私たちに対し、とても気さくに対応してくださった。午前中に法事があったというお忙しいなかでありながら、「写真を撮るのなら着替えてきますよ」とわざわざ法衣に着替えてくださった。おかげでこちらも次第に緊張がほぐれていった。

 弘尚さんは荻窪で生まれた。お寺の行のため、関西に6年いたほかは、荻窪で暮らしている。小学校は光明院と同じ真言宗豊山派のお寺である宝仙寺(中野区)が設置母体である宝仙学園小学校に、東京メトロ丸の内線を使って通っていたという。

 光明院は宝仙寺の末寺である。明治期までの光明院は、「田舎寺」であったという。 そのころの光明院は“無住”だったという。そこで中野の宝仙寺の貫主が住職を兼ねていた。実際に、本堂が明治21年(1888)に甲武鉄道の開通時に移転した記念として建てられた碑にも、「当山(光明院:執筆者注)兼住職宝仙寺第四十七世」という文字が刻まれている。弘尚さんの曾祖父は、もともと福島の出身で、中野の宝仙寺で修業をしていたのだという。その時にたまたま見いだされ、光明院の住職になった。

002

甲武鉄道開通時に本堂が移転したことを記念する碑

 「かつてこの周りにはなにもなかったのかなと思います。うちの場合は、昔はお金もなくて檀家さんも少なかったような小寺で、そんな時にたまたま線路を引くという話があって、それが境内地を通るので境内地を割譲することにもなりました。また住職がいなかったときに兼務というかたちで宝仙寺さんが助けてくださったんです。これが今になってみれば駅からも近いという立地が幸いすることになりました。お檀家さんがだんだん増えてきたのも、いろいろな要素があって今に至っているのかなと思います。」

 荻窪という地域の発展とともに、光明院は現在の発展を迎える。駅から近いという理由でお参りする人も多いという。檀家ではなくとも、駅から近いという理由で斎場を使う人も多い。


時代のうつりかわりとお寺の役割


 かつて光明院は「観音保育園」という保育園を経営していた。その保育園があったころには、地域の盆踊りも行われていたという。昭和43年(1968)現在大斎場となっている観音ホールが建立され、ここでかつて保育園の子どもたちもお遊戯会などを行っていたという。さらに、ご住職は保育園の園長をやりながら、人形劇団をやっていて、観音ホールにあったステージで、人形劇も上演していたという。
 しかし、だんだんと地域に子どもが少なくなってきたり、人形劇の時代でもなくなってきたりという要因が重なり、観音ホールは1990年代に改装、これからの時代は自宅でお通夜や葬儀を行う人が減り、お寺でお通夜や葬儀を行う時代になるだろうということで、現在のような斎場になったのだという。

 時代が変わっていくともに、地域のなかでのお寺の役割も変わってきた。お寺が地域の祭りなど、コミュニティの中心になっていた時代が終わり、近年「葬式仏教」と揶揄されるように、「葬送の場所」としか広く認識されなくなってきた。

004

荻の小径

 お寺の役割変化をうけ、光明院の認識もかわってきたという。「荻の小径」がそうだ。線路沿いに整備された通路は、光明院の境内にある。この小径には、荻窪の歴史の象徴でもある荻や、季節の草木があり、往来する人々の目を楽しませている。また小径は脇の通用門から24時間通行が可能だ。これは光明院が地域に開かれた寺院として存在するためのひとつの工夫だという。

 「出会い観音」と呼ばれているご本尊も、人を引き付ける。かつて盆踊りが行われていたとき、この境内に参拝した人たちが結ばれることが多かったという。(ご本尊は普段は非公開だが、毎年3回御開帳される)

 言い伝えを活かした“戦略”も、お寺が地域に開かれる契機になる。

 また災害に際して、お寺がもつ役割は大きい。光明院では、非常食の備蓄もしているという。なぜならば、地震などの自然災害が起こると、人は自然とお寺にあつまるが、救援物資が届くのは、ほとんどが公営の公共機関だからだ。いざという時に頼れる場所であるための工夫・努力・知恵だ。

 「この周辺は割と災害対策はしっかりしていて、公的機関には防災のシステムはほぼ完備されているんですよね。それでもお寺としても防災の備えをしておくべきなのかな、と思うんですよ」

 防災の意識、それが今の時代に課せられた「お寺の努め」だという。

 年中行事として、大みそかには除夜の鐘を先着順(108回)でつくことが出来る。ご奉納は1000円。振る舞い酒も出る。
 近年は除夜の鐘をうつことが出来る寺院も減ってきている。家族で運営している寺院も苦しいところがあるという。
 「除夜の鐘という行事で、鐘をついていただくこともコミュニティの一環です。これも未来永劫、続けていかないといけないなと考えています。」

 移り変わっていく時代に順応していくことが、寺院としても求められているのだという。


聖と俗


 「お寺には「聖」と「俗」の部分があるんですよ。このお寺を残していくような「俗っぽい」ことも続けていかなければ、お寺も生き残っていけないと思っています」

 “ペット”へのまなざしも、近年かわってきているのではないだろうか。ペットも家族の一員として、近年ではペットのお墓も売り出している寺院や共同墓地がたくさんある。

 「真言宗の教えではペットは“畜生”なので、これを一緒に人間と葬るのは本来ダメなんですよ。ですので、今は光明院ではペット供養はやっていません。でも、これからはそう言ってもいられなくなるのかもしれない。例えば、災害時に小学校などの公共機関にはペットを連れて逃げられません。その場合に、お寺を開放してあげるようなことも必要になってくるかもしれない。考え方はいろいろあるのですが、ひとつの案として、例えば犬塚のようなものを作って、教義に反しないように人間とは別に葬ることも、これからの時代には求められてくるのかもしれませんね」
 
 社会へ対する“俗”なアプローチを行いつつも、“聖”の部分も守っていくことがお寺という場所だ。

 「常々我々のなかで言われているのは、真言宗の宗派として、我々が社会に迎合してはいけない、仏教観は変えてはいけない。ただし、社会がどう動いているかはだけは、よく見ていかなければならない。ということです。お寺だからといってなにも変わらずに社会から取り残されることもいけないことだし、だからといって教えや教義をねじまげてまで迎合するのもだめ、ということです」

 真言宗豊山派では、そのバランスをとることを教えているという。

 そもそも真言宗は、大きなものだけで18の宗派に分かれている。もちろん、おおもとは平安時代初期に空海がもたらした“密教”である。
 真言宗では、経典を議論していく。当然、僧侶によって読み解き方がかわっているわけであり、その大きな流れとして「分派」することになる。

 光明院が属する真言宗豊山派は、根来寺を中核として新義真言宗の一派で、16世紀の末頃、大和長谷寺(奈良県桜井市。豊山派総本山)を再興した専誉が起こした宗派とされる。

 江戸時代に宗派を広げていくなかで画期となったのが、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院が、護国寺(東京都文京区。豊山派大本山)を開創したことによる。護国寺は徳川将軍家の祈祷寺として存在し、豊山派は護国寺を中心に関東へ末寺を広げていった。

 歴史のなかで培われてきた教義を守ることも、必要であることに違いない。


人々の仏教との接し方


 最近の人たちの仏教観は変化してきているのだろうか。

 「仏教観そのものは変わっていないんですが、仏教との「付き合い方」が変わってきたんじゃないでしょうか」

 例えば“お布施”。「お布施の値段」は決まった料金ではない。だが「値段を決めておいてほしい」というのが最近の傾向だという。
 おそらく「聞くのが面倒くさい」のではないか。と弘尚さんは考える。
 昔はお店の店員さんと話をして、値段交渉をすることがどこのまちでもあった。値札はあってないようなものだったのだ。しかし、今は店員と話して値段を決めるというやりとりは、ほとんどなくなってしまった。値札通りに支払うし、値段交渉をすることはほぼ無い(近年は家電量販店などではそれが出来ることが「ウリ」になっている傾向もある)。
 コミュニケーションの方法が変わったことにより、人と接するのがわずらわしいのではないか。だから事前にお布施の料金も決めておいてほしいのだろうと推測する。

 そもそもお布施の値段が決まっていないのは、人によって値段の重みが違うからだという。

 「例えば卑近な例ですけれど、今日食べるものにも困っている人がもってきたなけなしの一万円と、大金持ちが“これくらいでいい?”と持ってきた一万円、同じ一万円でも重みが違うわけですよね」

 かつてお寺は地域のコミュニティの中心にあって、檀家さんなど地域の人たちの生活状態も把握していた。

 「あのおうちは今日食べるものも苦労しているのに、こんなに一生懸命お布施を持ってきてくれたんだから、葬式も供養も心配しないでいいよ。と言ってあげるのがお寺の付き合いだったんです」

 コミュニケーションが取れている時代ではこれが出来ていたのではないかという。

 「人との接し方が昔とかわってきたがために、お寺がいまの人たちにとって面倒くさいものになっているんですよね。その垣根をはらうのは料金を決めることが簡単なのかもしれないけれど、あえてそれでもお寺から声をかけることが大事な時代で、若い人たちの“仏教観”もそれによって、変わっていくのではないかなと思います。わずらわしく思われたり、余計なお世話だと思われたりするだろうことは重々承知の上ですけれど、それを聞くのが住職の仕事なのかなと」

 コミュニケーション不足によって、ため込んで悩んでしまう人も多いだろう。話を聞いてくれる場所があるのならば、状況は変わってくる。

 時代の変化のなかで、お寺と地域との関係も、大きく変わっていった。お寺の教義やお寺の存在そのものが変わったわけではない。社会との関わりももちろんのことだが、行政との関わりも現代の寺院をとりまく大きな問題の一つである。

 「今の時代にとって宗教の役割が何なのかも、考えていかなければならないですよね」


今後の光明院


 時代はこれからも変わっていく。その時にどのように伝統を引き継ぎながら、社会とかかわっていくのだろう。

 「やっぱり今は難しい時代なので、ともかくもお寺を守っていくことが大事だと思っています。十年後、二十年後に檀家制度がどのように変化しているのかもわかりません。檀家を増やすための入口も変わっていくんじゃないかと思います」

 現代では、「お墓を持つ」ということが檀家への入り口となる。いわば「聖」なるものを契機として、必然的に檀家関係になることが多い。

 「今でもそうですけど、なぜお寺に行くのか、例えば京都のお寺だったら名所が多いとか、現世利益を求める精神的なものだとか、そういう理由が多いですよね。でももしそれが、世の中に受容として、前提とされるようになったときは、光明院も変化しなければいけない。もちろん教義を捻じ曲げるわけではなく、それにのっとった形で、あらたな要素を提供していく必要があるでしょうね」

 お寺が地域社会のなかで持つ意味、それを常に考えていくことが必要だという。

 「例えば、お話し方教室をやるとか、前やっていた人形劇団に近いような、文化的なプログラムを地域に発信していくことも重要ですね。昔は書道教室とか剣道教室とかも観音ホールでやっていたんです。将来的に、それをきっかけに人が集まってきて、お寺が発展していくことも出来るのかもしれません」

 今回お話しをうかがって、ここまでお寺が、変化していく地域社会のなかで存在していこうとしているのかということに、(たいへん失礼なことながら)意外に思うと共に大変感銘を受けた。気さくにお話ししていただいた弘尚さんのお人柄も、地域のために発展していこうとする光明院の性格を表しているのかもしれない。

 (重ねて失礼なことながら)旧態依然として存在しているかのように思える寺院社会にあっても、そこにお寺が存在していく限り、地域のハブとしての存在は、変化を遂げながらも、未来永劫続いていくのだと思う。

003


   文責:駒見敬祐
   写真:澤田末吉

   取材日:2018年8月6日

   重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2019年2月 1日 (金曜日)

アプローチは「西荻窪(Nishiogikubo)+社会学(sociology)」


004_2

「都市の食文化をテーマとした、ウェブベースの東京フードカルチャーを調査するプロジェクト」を標榜する「西荻町学(Nishiogiology)」というWebページ(www.nishiogiology.org)がある。そのリーダーが、上智大学国際教養学部教授のジェイムス・ファーラーさんだ。同じ町を基盤に活動する「西荻春秋」としては、西荻窪に対する思いやこだわりについて興味津々……。ということで、今回はジェイムスさんにお時間をいただいて、様々なお話を伺うことにした。


アメリカ南部から欧州、中国、そして日本へ


 私が生まれたのはアメリカのジョージア州の田舎町です。今でも人口は3000人くらいしかいません。独立戦争(1775-1776)の頃も同じくらいの人口だったから、200年以上経っても変わっていない(笑)。10歳のときにテネシー州に移って、そこで高校を卒業し、ノースカロライナ大学へ入りました。ですから、私の故郷はアメリカ南部。昔から今に至るまで、政治的にも社会的にも保守的な土地柄です。
 大学在学中に、ドイツのデュッセルドルフ大学に留学します。そこで「海外の生活はやっぱりいいなあ」という思いを強くしました。アメリカ南部の生活は、あまり自分に合っていなかった。保守的なところから逃げたかったのです。ヨーロッパは本当に居心地がよかった。
 そんな思いもあって、1987年に大学を卒業した後、2、3年かけてヒッチハイクでヨーロッパから台湾まで旅をします。ヨーロッパではいろいろな所で働きました。イギリスでは新聞記者もやりました。スペインでは、数週間ですがサーカスで働いたこともあります。毎日象に餌やりをしましたが、とても印象的な仕事でした。
 地中海を回ってエジプトまで行き、インドやバングラデシュにも行きました。その後、台湾に渡るのですが、インドで日本人と知り合ったことで、本当は日本に行きたいと思った。でも、当時はお金もなくて……。日本はバブルの頃で、物価も高いし、とても行けなかったんです。だから台湾。
 1年間、一所懸命に中国語を学びましたね。そのおかげで「東南アジアは面白い」と感じるようになり、社会学で有名だったシカゴ大学の大学院に進みました。1998年に博士過程を修了して、中国の上海に行きます。上海には3年間住んで、中国の若い人たちの恋愛や結婚に関する研究をしました。
 そしてアメリカに戻るとなったとき、ちょうど上智大学が社会学の研究者を募集しており、それがきっかけでようやく日本に来ることができたのです。「日本は素晴らしいところだ。行きたい」は思っていたけれど、そのとき日本語は全くできませんでした。


印象的だった東京の街


0f00eb74e4d5468098e535d116732b86


 初めて東京に来たときに、友人が吉祥寺に連れて行ってくれたのですが、ハモニカ横丁がものすごく印象的でした。もうひとつ印象的だったのが、やはりその友人が連れて行ってくれた渋谷のガード下の飲み屋街です。
 上海も大好きな街ですが、東京は本当に面白い街だと思います。住み始めてもう20年にもなるのに、わかっていないところがものすごく多い。それは、たぶん東京が歴史ある古い街だから。古くからの東京の人は、自分を「東京人」ではなく「西荻人」とか「神田人」とか称して、その所々にアイデンティティを感じていますよね。生まれた土地、住んでいる土地にこだわりがある。
 東京はロンドンに通じるものがあると私は思います。ロンドンも古い街で、鉄道が発達する前の雰囲気も残っているし、鉄道が発展するにしたがって駅ができていく、18、19世紀の雰囲気も残っています。

 では、上海はといえば、シカゴと同じような感じでいわば20世紀の街です。移民の町ともいえる。面白いけれども深いとはいえません。自分にとって特別な土地だ、という意識はあまりない。ひとつの中心市街地があるだけという感じで、面白くはないですね。しかも上海は、例えば3年も空けて久々に訪れると、自分がどこにいるのか全くわからなくなる。そんな街です。
 しかし東京の場合は、西荻にしても、新しい店は増えていても街の姿はそこまで変わっていないところが多い。現地の人に聞くと、昔ながらの西荻の特徴はまだまだ残っていると言います。そこが違いますよね。
 私は日本に来て20年ですが、最初の10年間は、毎年3カ月くらいは上海に滞在していて、ずっと中国の研究をしていました。住んでいたのは中野新橋だったので、新宿にもよく行っていました。食事をしたり歌舞伎町などを見て回ったりして、魅力的な街だと思っていた。まだ若かったせいもあるかもしれないですね(笑)。
 そのうち、たまに阿佐ヶ谷に行くようになって、阿佐ヶ谷の商店街とか街並みとか、すごく好きになりました。でも今は、古いお店が閉まって、チェーン店などが入ってきて変わってしまいましたね。
 その後、上海に1年間行くことになり、日本に帰ってきてあらためて住むところを探したときに、本当は吉祥寺に住みたいと思った。でも、吉祥寺には手頃な物件がありませんでした。西荻の人に「どうして西荻に住んでいるのか」と聞くと、「吉祥寺には住めなかったから」という話がよく出ますが、そういう人は多いですね。
 西荻がどういう街か、もちろん私にはわからなかったけれど、松庵に住むことにしました。その当時は、商店街を歩いてもあまり賑やかではなかった。
 けれども、なぜ、西荻窪に暮らしている人が「西荻人」になるのか、興味が湧きました。私も西荻が好きになっていたし、日本に長く住むつもりになっていたので「日本の社会にもっと深く入りたい」と思うようになりました。そのためにも、「西荻町学」をやりたいと思い立ったわけです。プロジェクトを始めたのは2015年でした。


興味深い日本の「飲み屋文化」「食文化」


 私は海外経験を元にした視線で日本を見てしまうのですが、日本の飲み屋文化や食文化にはとても興味があります。上海の飲食店の研究も続けていますが、中国には個人経営のような小さなお店はない。オーナーとしゃべったり他のお客さんとしゃべったりするお店はないのです。でも、上海でもそういった文化に憧れている人はたくさんいます。しかし実際には自分ではやれない。
 その理由のひとつは、職人の存在です。職人つまりシェフが、自分で料理して自分で客に提供する。中国やアメリカには、そういった職人はほとんどいません。でも、お客さんはそういうお店で飲食することで、その職人の専門知識に接することができる。私はそれがすごく面白いと思うのです。
 私の上海の友人は日本の食文化が大好きで、自分でも店をやりたいと思っています。しかし彼の考え方は、料理人を雇ってきて自分はオーナーになる、というもの。日本人の店主は1日15時間とか働くけれど、外国人には難しいことです。やるとなったらすごく辛いと思っている。
 私も、そういう職人の仕事をすごく尊敬しています。だから、そういう舞台裏を見てみたいし、その厳しい生活や仕事ぶりも見てみたい。毎日同じ仕事を、朝から夜まで頑張っている。本当に面白い文化だと思います。そして、いつか本に著したい。もちろん、今の段階では表面上をさらうだけになってしまうので、職人に対して失礼になりますね。だから難しいと思っています。
 もうひとつ、コミュニティが形成される飲み屋の象徴のような『深夜食堂』というドラマがありますが、中国語バージョンもあって、中国人もよく観ています。店主や他の客との会話を通して小さな夜のコミュニティとなっているのが『深夜食堂』ですが、本当にそんな店が存在するのかどうか、上海の友人にはわからなかった。たぶん虚構だと思っていたでしょう。

002_2


 でも実際には、そういう常連さんがいる小さい飲み屋がたくさんありますね。私も、外国人で日本語もそんなに上手くしゃべれないのに、飲みながら他の人と結構会話ができる。これも日本の飲食店の特徴だと思います。
 この二つの事象は、社会学者から見ると、ものすごく面白い。「なぜ西荻か」と問われると、「そういう個人経営の店が多いから」となります。もちろん日本全国、いろいろな土地にもあるでしょうけれども、これほどの都会の中で小さい規模の店が集まっている地域というのは、世界中でも珍しい。街中で、そういう生活をどうやって維持するのか、不思議ですよね。簡単には答えはわからない。だから、ドイツやアメリカ、フランスの学会で私が西荻のことを紹介すると、みんな興味を持ってくれます。


小さな店だからこそ生まれるコミュニケーション


001_2


『深夜食堂』の話をしましたが、元来は、日本人は他人とコミュニケーションを取るのが上手ではない国民ですね。だからこそ、客同士の会話が生まれ得る小さな飲み屋が必要なのでしょう。西荻などによくある小さな飲み屋でこそ、客同士あるいは店主とのコミュニケーションが生まれるのです。
 さらに言えば、飲食店の主人がうまく話を取り持ってくれるという雰囲気もあるかもしれません。
 私は、西荻での経験がそんなに長くないので、私自身が常連だという店は、まだありません。だからあちこちの店に入るのですが、それでも様子を見てみると、店ごとに微妙な差があります。それぞれの店主の性格の違いがあって、賑やかな人のところには賑やかな雰囲気が好きな人が集まる。逆に、あんまりしゃべらなくてもいいという雰囲気のお店もあります。だから、自分の性格と合う店主がいることが大事だと思います。
 ところで、社会学的に見ると、狭い空間だからこそ、という要素もあると思いますね。
 例えばアメリカ人なんかは、飛行機で隣り合わせになるだけでもお互いにしゃべり合って、情報交換したりする。特別な空間が必要ないのです。どこでもコミュニケーションが成立する。しかし私が思うに、日本の社会ではグループが大事。例えば私のグループに誰かを入れようとしても、私個人の意見では決められない。新しい人を入れても大丈夫かどうか、みなの意見を聞かなくてはなりません。
 バーのような小さな空間、例えば5人しか入れないという制限があると、そのグループという感覚が作られやすいのではないでしょうか。個人の話ではなくグループとしての話になりやすい。たとえ店主とだけしゃべっていたとしても、他の客にもその会話は聞こえているので、コミュニケーションを共有できることになる。やはり空間が小さいからです。
 制限された空間だからこそ、安心感があって盛り上がることもできる。日本人が持つ「本音と建前」という、外国人の私たちから見ると面白い感覚も崩すことができます。行きつけの飲み屋では何でもありですからね。そういう飲み屋文化自体が本当に面白いと思います。


「飲み屋」の様変わり考


 小さな飲み屋の集まりといえば新宿のゴールデン街が有名ですが、私も昔から行っていました。けれど、ずいぶん変わりましたね。日本は今や観光大国ですから、新宿にしても吉祥寺にしても、海外からの観光客がかなり来ています。ゴールデン街も、20年前に私が日本に来たばかりの頃は常連だけの小さな飲み屋ばかりだった。「会員制」という札が貼ってある、みたいな。でも今は、観光客が来ている店が多いですね。そういう客が来ないと店自体がなくなるのかもしれません。
 昔と今では、若者のお酒の飲み方も変わってきています。昔は、ママさんがいて、男性客が飲みに来る。今は、若い女性も入りやすいようにガラスドアにして、店内を見やすくしたり入りやすくしたりしていますね。若い人は、そういう店に行きたがる。
 西荻もそうです。新しくできたお店は、そんなオープンな感じのところが多い。あとは、若い男性のバーテンダーがいる店。女性を集客するためですよね。若い人に本当にすごく人気があります。若い女性客が入っていると、男性客も入ってくるということで、もちろん私も入りたい……(笑)。

005_2


 人気がある吉祥寺のハモニカ横丁でも、今では企業グループのお店が多くなっています。例えばVIC傘下のお店ですね。外見は小さなお店が多いように見えても、実はひとつの会社が経営しているという状況。それはそれで、西荻とは違う、ひとつの素晴らしいモデルだとは思います。西荻も、もしかしたらそんな状況になってしまうかもしれない。わからないですけれども、そういった変遷を見ていくのも面白いと思います。


「西荻町学」のこれから


003_2


 私が西荻の研究を始めたときは、2年ぐらいで終わると思っていました。けれどもすでに3年を経て、でも知っているところよりも知らないところのほうが多い。街の中の小さい飲み屋さん、食べ物屋さんが本当に多いですよね。みんな自分の小さな世界を作り上げている点も面白い。最初は、もっと幅広い取材をしようと思っていたんですが、今は、食文化だけに絞ってやっています。
 私たちは、西荻町学を、感情を込めてポジティブな気持ちでやりたいと思っています。というのは、社会学者の本能的なものとして、社会の不平等などの問題を取り上げたい。例えば、レストランの中の男性と女性の役割の違いといった、ネガティブな部分に入り込んでいきがちになります。社会学的には、何でもない話から面白いことを見つけ出すことが重要とされるので、そういう意味では社会学者は、面白い人や文化人などにインタビューするのは面倒くさいと感じる。面白すぎる話は社会学にならない(笑)。ごくごく一般的なことを知りたいというのが社会学なんです。けれども、スタッフのみんなが一所懸命に取り組んでいるからこそ、感情がこもったポジティブなものになっているのだと思います。
 西荻町学のこれからですが、将来的には本にしたいと思っています。西荻だけではなく、西荻を見本にして日本の食文化を全般的に紹介したい。高級店やそういうお店の職人さんだけではなくて、テレビでよく見る有名シェフだけではなくて、幅広く紹介したいですね。だから、ファミリーレストランやチェーン店なんかも研究していきたいと思っています。せっかくの話も、Webページには書けないこともありますよね。でも本にするときには、そんな裏話もぜひ書きたいです。
 歴史からも、もっと深く迫りたいと思います。例えば柳小路は、売春防止法が施行されるまで青線地帯としても有名でした。そういった深いところまで掘り下げて、もっともっとこの街のことを知りたい。けれども、書いてあるものとしては残っていないですから、体験者から聞くしかありません。そうやって、この町のもっと歴史的なことを調べて書いていきたいと思っています。
 でも、私たちは外から来た人間だから、この町では社会的な深いつながりを持っていません。たまにお年寄りの話を聞きたいと思っても、仕事などもあって時間が取れないことも多い。昔の飲み屋街のことを知っているママさんのお店にも飲みに行って、話を聞きたいなと思います。
 そういう意味では、私たちの「西荻町学」と「西荻春秋」が協力できればいいかもしれませんね。私たちは同じ興味を持っているのだから、どんな形でも協力できれば、面白いことができるのではないでしょうか。


文:上向浩
写真:澤田末吉

取材日:2018年9月26日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2018年7月20日 (金曜日)

見聞 井伏鱒二『荻窪風土記』の世界


 井伏鱒二『荻窪風土記』(新潮社、1982)は、大正の関東大震災以降、井伏が暮らした荻窪の記憶を随筆風に綴った作品である。今回の取材では、井伏が書いた『荻窪風土記』の現場の“今”を訪ね、景観の移り変わりを記録するとともに、古くから荻窪地域に住む人々に当時の様子を尋ねることで、『荻窪風土記』の世界を〝見聞″していくことを目的とした。

 JR荻窪駅は、現在では1日平均88,000人以上(2016年度)が利用する、中央線沿線でも人気のまちである。駅北口には大型のショッピングセンター「荻窪タウンセブン」がそびえ、多くの買い物客で賑わう。東京メトロ丸ノ内線の終着駅にもなっている「荻窪」は、多くの人が行き交うまちだ。
 そんな荻窪ではあるが、昭和初期にはまだまだ人家は少なく、農村風景が広がっていたという。昭和2年(1927)、荻窪に転居先を求めに来た文豪・井伏鱒二は、「麦畑のなか」で農作業をする「野良着の男」に声をかけ、土地を借りることになる。これが『荻窪風土記』のプロローグにもなっている。


S001cnishiogishunju023049_hacho_i_2

青梅街道「八丁」交差点

 我々は現在の『荻窪風土記』の舞台の様子を取材するため、荻窪の「八丁」に向かった。青梅街道の四面道交差点より西側には、現在「八丁通り商店会」がある。そこでかつての荻窪の様子を知る人を探そうと、不動産屋((有)桃井山口商事)を訪ねた。ここは総業50年を越える老舗不動産屋だ。そこで、地元の町会である中通明和会の会長志村彰彦さん(81)をご紹介していただいた。そして志村さんのお計らいで、志村さんの同級生の井口清さん(81)と、松原安雄さん(89)の御三方に取材させていただくことになった。みなさん、生まれながらの〝荻窪人″である。
 まずは子どもの頃の荻窪の風景・印象についてうかがった。


まちの景色

S001cnishiogishunju023008_mar2_20_3

志村彰彦さん

 「そうですね、農村ですよ。純粋な農村。荻窪駅の周りはね。荻窪駅のあたりは、後から発展したところで、実際には八丁、四面道から駅とは逆の方が繁華街だった。駅の方は家数が少なかったですよ。」(松原)

 荻窪駅が開業したのは、明治24年(1891)の12月である。なんとなく現在の常識からみてしまうと、駅の周辺こそが繁昌していたのではないかと思いがちだが、考えてみれば必ずしもそうであるはずはない。大正頃の荻窪駅は、1日に上り下りとも各9本の汽車が運行するだけでしかなく、大正3年の1日平均の乗客数は、わずか197人だったという(森泰樹『杉並風土記 上巻』)。
 一方で、江戸時代の荻窪は、青梅街道筋にあって、御嶽山登山参詣の道としてにぎわっていた。これは天保五年(1834)に刊行された御嶽神社への道中案内書である「御嶽菅笠」にある「荻久保の、中屋の店に酔伏して」との記述からうかがえる。「中屋」の場所は明確ではないが、荻窪には御嶽参詣人を「泥酔」させるような店があったのだろう。荻窪駅が開業して発展するまでは、現在の八丁商店街のあたりこそが、荻窪の中心地だった。
 荻窪駅も、現在とは全く違った様子だったという。
「俺が会社に行きだした昭和30年ころはまだ全部木造だったんじゃないかなぁ」(志村)「昔、荻窪駅は北口が無くてね。南口しかなかったんですよ。北口が出来ても、私らが若いころは、朝早く行く時や夜遅い時はね、(北口は)閉まっちゃっていて、南口にまわるしかなかったんですよ」(井口)
 荻窪駅が開設された当時は、南口だけの平屋建て駅舎だった。開設当初の荻窪駅の雰囲気は、荻窪の古老矢嶋又次氏が描いた「記憶画」によってよくわかる。北口が開設されたのは、昭和2年(1927)の春のこと。マンサード型(牧舎型)の屋根をもつ、モダンな雰囲気の駅舎だった。この駅舎の写真は写真でも残っている。昭和37年(1962)、地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線)の開通に伴って、荻窪駅は地下化されることになり、北口駅舎もビルに改築されることになった。

「青梅街道も、昔はもっと細くて曲がっていたよね。」(井口)
「そうそう、昔の青梅街道はね、ずいぶん狭かったんですよ。今の道で一番わかりやすいのはね、今の北口の交番と商店街の間の道があるでしょう?

S001cnishiogishunju023074_oumekaido

荻窪交番前

あれが青梅街道。広くしたのは中島飛行機が出来たからじゃないかな」(松原)
「(中島飛行機は)軍需工場だったから突貫工事だったんだろうね。毎晩資財を運ぶんで、戦車の音が聞こえていたよ」(志村)

 荻窪の古老矢嶋又次氏の著作『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)には、当時の青梅街道の写真が掲載されている。なるほど今の青梅街道からは想像もつかない景観である。

1955_5

1c_4

『荻窪の農業』(左表 杉並区立郷土博物館蔵)と矢嶋又次『荻窪の今昔と商店街之変遷』より (右写真)









『荻窪風土記』には、沢庵が荻窪での主要物産だったとある。昭和6年~8年頃、詩人の神戸雄一に土地を貸していた地主は、漬物屋だったという。
では純粋な農村だった荻窪では、何が生産されていたのだろうか。

「この辺で作っていたのは蔬菜類ですね。米はあんまり。大麦は作っていましたね。水田はあんまりなかったからね」(松原)
「米でも陸稲だよね」(井口)
「菜っ葉とかだな。小松菜なんかね。ほうれんそうとか三つ葉とか」(志村)

 昭和35年(1955)に刊行された『杉並区史』をみると、杉並区全体の「蔬菜類作付面積」は、昭和7年では馬鈴薯が167町で全体の中で一番多く、次いで大根が133.8町あった。ところが、昭和15年をピークとして、全体的に作付面積は減少していき、戦後の昭和27年段階では、40町を切るまでになっていることがわかる。

「沢庵も作っていましたよ。だいたい大根を作っていたね」(松原)
「この辺の大根も“練馬大根”って言っていましたよ。漬物は自分のうちでやっていたね。漬物を作る樽もいっぱいあって、その上に乗せる石がね、デカくて丸い、持てないような石が何百ってありましたよ」(井口)
「それの集大成が井草八幡宮に今でもある“力石”ってやつですよ」
「大根を〝矢来″にかけるまえに洗うんですよ。それを小さいころ手伝わされたんだけど、寒い時は水が冷たくてね。手がかじかんじゃった記憶がありますよ」(松原)

10

大根干し(清水、昭和10年頃)
(杉並区立郷土博物館蔵)

 昭和初期の荻窪では、いたるところで矢来に大根を干した風景がみられたのだろう。杉並区立郷土博物館所蔵の写真からも、そんな風景がうかがえる。

 荻窪でつくられた農産物は、神田や京橋のほうへ出荷されたという。『荻窪風土記』にも、天沼の長谷川弥次郎さんの話として、大八車で東京の朝市に出荷する話が出てくる。実際に、御3人からもこれと同様なお話をいただいた。

「うちの親父の話でも、ここらへんから京橋に大八車で持っていったって聞いたよ」(志村)
「神田のほうにもっていくんですよ。そしたら青梅街道の鳴子坂のところには、大八車を押す人が必ずいるんです。でもそっちに卸しに行ったらね、二日三日は帰ってこないんですよ(笑)」(井口)

――――帰ってこない?

「鍋屋横丁に飲み屋がいっぱいあってね。それで帰ってこない(笑)。私のおじいさんなんかもそこにひっかかって帰ってこないから、親父が迎えに行っていたって言っていましたよ(笑)」(松原)

 なるほど、納得である。

 関連するかはわからないが、江戸時代の川柳に「新宿に 遊ぶにはこれ 妙法寺」という句がある。江戸の人たちは西の堀ノ内妙法寺に参詣に行く「ついで」に、当時から盛り場だった内藤新宿に遊びに行ったという。江戸時代から、杉並地域の人たちは江戸に野菜を卸していたというから、西の人たちは仕事の「ついで」で遊ぶことを楽しみにしていたのかもしれない。つくづく、人は遊びたがるものである。

S001cnishiogishunju023015_mar2_2018

井口清さんと松原安雄さん


昭和初期の子どもたち


続いて、子どもの頃の遊びの話についてうかがった。

―――虫切り―――
「〝虫切り″をやっていたおじいさんがいましたね。虫切りっていうのは、子どもの疳(かん)の虫を封じるというまじないのことでね。手相のすじをちょんちょんときるんです。そうすると赤ちゃんの夜泣きが治るっていう」(松原)
「虫切りの日っていうのは、日にちがきまっていて、そのおじいさんは立川のほうから電車で来るんです。荻窪駅を降りて、ちょうどうちの前を通るんだけど、子どもを何人もつれて歩いて来るんですよ。あぁ、虫切りの日だっていってね。そのころになると4、50人くらい連れてあるいていましたよ」(井口)

 “虫切り”は“虫封じ”とも言われる疳の虫封じの呪法で、民間信仰(療法)のひとつである。かつては親を悩ませる子どもの夜泣きは、一つの病気であり、体内に宿る虫が子どもの疳を起こすという考えがあり、いろいろな療法が行なわれていたという。

―――木登り―――
「私がいちばん覚えているのは、木登りの記憶ですね。このへんのガキ大将がいてね、木登りをするんですけど、私だけ木に押し上げられてね、それで気がついたら誰もいない(笑)。ワーワー泣きましたよ」(松原)

 子どもがやんちゃなのは今も昔も変わらない。ずいぶんとひどいこともする。

「木登りといえば、柿の木に上って、生っている柿をとってよく食べたよ(笑)」(井口)

「そうそう。でもお母さんに「ダメだよ」って言われるから、下からみえるとこだけ残して上の方だけ食っちゃう(笑)。お母さんは上ってこないからね。下からみたら食べられているってわからない(笑)」(松原)
「あの頃はみんな腹が減っていたから、みんな柿をもっていっちゃうんだよね」(志村)

 とてもユニークなエピソードである。子どもたちもいろいろと考えるのだ。その柿は、結局最後はどうなったのだろう。

「木に登るとね、いまみたいに高いビルがなかったから、富士山とか、秩父の山が綺麗にみえたんですよ。もう全部目の前にみえるような感じでね」(井口)

―――魚獲り―――
「妙正寺の川で魚すくいにもいったね」(井口)
「鮒・ドジョウね。あとは〝赤べったん″。タナゴのことね」(志村)
※森泰樹『杉並の伝説と方言』では、「あかんべえ=たなご」という方言が紹介されている。
「あとは〝えびがに″がいくらでも獲れましたよ。バケツ一杯とかね」(井口)
――えびがに?
「あれはアメリカから来たんじゃなかったかな」(松原)

 どうやらアメリカザリガニのようだ。近年では生態系を崩す〝外来種″として問題視されているが、昔も今も子どもの遊び相手だった。ちなみにアメリカザリガニが日本に輸入されたのは昭和2年(1927)だというが、みなさんの子どもだった昭和10~20年代頃には、既に杉並にもたくさん定着していたのだろう。

「台風の翌日なんかになると田圃が冠水しちゃってね、そこに鮒なんかがいっぱいいたよ。ナマズなんかもいましたね」(志村)

―――動物の思い出―――
「イタチもいたね。物置の下に巣をつくっちゃって。かわいいんだよ。あとはフクロウもいたな。このへんに杉林があって、夕方鳴いているのを聞いたな。」(志村)
「戦後はヘビなんかも多かったですよ。小さいころのある晩に、私一人で八畳の部屋に寝ていたんですね。そしたら夜中に〝ぱたん″って音がするの。で、ふと上をみたら梁(ハリ)の上にヘビがいたの。1メートルくらいあるデカいやつ。昔は囲炉裏を使ってたんでね、囲炉裏の熱で、そこが暖かかったからか居ついちゃっていた」(松原)
―ギョっとするエピソードですね…。
「ヘビなんかはね、とりにいって、焼いて食ったよ(笑)。シマヘビね。あとは高校生くらいのときにね、いたずらでヘビをポケット入れて、女子のとこいってねそっと見せて脅かしたこともあったよ(笑)。まぁ今だったら問題になっているだろうね(笑)」(井口)
「アオダイショウはね、2メートルくらいデカいやつもいたよ。」(松原)

 都市化が進んだ街中では、あまり生き物を見なくなった気がする。かつてはもっと生き物(ペットとして買われたものではない野生の生き物)と共存していたし、子どもたちの遊び相手でもあった。…もっとも、ヘビ嫌いな私としては、2メートルのアオダイショウはごめんではあるが。


戦後直後のくらし


「このへんは芋畑も多くてね。終戦直後はサツマイモを作っていました。「茨城一号」とかいってね、大きいの。そんでね、まずくて食えたもんじゃない(笑)。それを供出に出していましたよ。それでも芋泥棒も多くてね。番小屋をたてて、親父と交代で番をしていました。ある晩、私が先に番をして、家へ帰って寝ていた時に、「来たぞ!」って親父に呼ばれてね。で畑に行って、囲むようにしたんだけど逃げられちゃった。そんなこともありましたよ」(松原)

 終戦直後は治安もあまりよくなかったという。

「このあたり、街路灯が無かったころは、追いはぎが多かった。終戦後。うちにも近所のおじさんが飛び込んできたことがあった。“助けてくれ”って。終戦後は怖くて道が真っ暗で歩けなかったよ」(志村)
「このへんだって街灯なんかなんにもなかったからね」(井口)

――闇市――
「駅の北東方の辺り(現:インテグラルビル付近)はみんな闇市でしたよ」(志村)
「タウンセブンのところもね」(松原)
「そう、バスターミナルのところも全部闇市でしたよ。昭和30~40年ころに火事があってね。それで焼けちゃって変わっていった」(志村)

 戦後復興から高度経済成長のなかで、荻窪駅周辺の様子は劇的に変わっていく。それは戦後の苦しい時代を、必死で生きていった人々の記録でもある。

「タウンセブンとかあるところは、ついこの前まで木造のマーケットだったからね」(井口)

 現在では荻窪のまちを象徴するデパートでもあるタウンセブンビルは、荻窪新興商店街周辺の再開発として、昭和56年(1981)の9月に完成している。こうして荻窪は東京屈指の人気のまちになっていくのである。

S001cnishiogishunju023075changesi_2

『杉並区史』より


お話をうかがって


 昭和初期、荻窪は純粋な農村風景だった。そこから約一世紀をかけて、荻窪駅とその駅前の風景は、劇的に変わっていった。今の風景からは考えられない“風景”を、お話から見ることが出来た。
 杉並区の人口は、現在では56万人を超えている。それも、戦後から高度経済成長期にかけて、急激なカーブを描いて人口が増えているのである。今まちに住む多くの人は、風景が劇的に変わった後に、荻窪の外から移り住んできた人たちである。ひと昔前の荻窪の風景を知る人は、少なくなってきている。
かつて、こんな風景が荻窪にはあったのだ。お話をこうして残すことで、少しでもその風景を残すことが出来れば良い。


 文責:駒見敬祐 写真:窪田幸子
 資料提供:杉並区立郷土博物館

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

2018年1月21日 (日曜日)

『オンギ』、ホットする味、韓国小皿料理


003

 西荻窪駅南口を出て、左手の線路沿いの平和通りを荻窪方向に5分ほど歩いて行くと『韓国小皿料理オンギ』に着く。韓国料理イコール焼肉と思って、そんなイメージの店構えを想像していくと通り過ぎてしまうかもしれない。ガラス張りのなかが見える店はおしゃれな喫茶店といった感じだ。ローマ字でOnggiと書かれたドアを開けて中に入ると、「いらっしゃいませ」と笑顔の素敵なキム ユナさんが迎えてくれる。彼女が一人で切り盛りしている店内は、5,6人が座れるカウンター席と4人掛けのテーブル席が一つのこじんまりした、落ち着ける雰囲気。

―――早速、店名の『オンギ』の意味を聞いた。
「オンギは焼き物で壺とか甕の意味ですけど、日本で瀬戸焼とかなんとか焼きというのと同じで、焼き物のオンギ焼きですね。工芸品もありますし、キムチとかの発酵食品を容れたり醤油漬けに使ったりして、毎日の生活で普通に使っている壺ですね。韓国で料理を作るとき普通に使われている道具ですので、ま、そのイメージが、普通の家庭で食べるような、おかずのような料理を出すお店のイメージにつながるかな、と思ってオンギと付けたんですね」。
 韓国で日常的に食べている料理を提供するお店ということで、さらに、韓国小皿料理と前にも付けて『オンギ』としたわけだ。あらためて扉に書かれた店名や頂戴した名刺を見ると、Oの字の中には壺の絵がデザインされていた。お店にお客できていた韓国出身の人が、この絵を一目見て、韓国料理の店だと分かった、と言うぐらいで、故郷のシンボルのような存在なのだろう。

004


―――韓国料理というといろいろあると思いますが、なぜ小皿料理なんですか?
「あの-、韓国では家でも外でも、食べるとき、品数を多めに出すんですね。見た目ちょっと贅沢でないともてなした感じがしないんです。日本に来て一番違うなと感じたのが、品数が少ないな、ということでした。でも、お店で多く出したら一人で食べきれないし、お酒も飲めなくなるでしょう。一人で色々食べられる方がいいと思って…」とほほ笑む。

008


―――お店のメニューにはキムさんの出身地の影響があるんですか?
「いま出しているのは韓国の一般的なものですね」。メニューにはサラダ、キムチ&和え物、ナムル、韓国漬物、一品料理、チヂミ、と並ぶが、ごはん物がない。お酒を飲むときの肴になるものがメインだ。

「ごはんをやると定食屋みたいになっちゃうし、私一人ではできないですね。夏に冷麺はやりますけど。でも、常連さんで、よそで買ったものを持ってきて、今日、これでお願いと、裏メニューみたいだけど、頼まれて作ることがありますよ」と笑いながら話す。
 お気に入りの料理を紹介すると、まずチヂミ。海鮮、じゃがいも、にら、エリンギなど7、8種類ある。「何でも衣をつけて焼けばチヂミですね」とキムさんが解説してくれる。焼きたての衣はふんわり、中身のレンコンは軽くサクッとしながらしっとりとジューシーで柔らかい。焼き過ぎの焦げめもなく、さっぱりしたタレをつけて食べると、パクパクっとお腹に収まってしまう。皮付きニンニク丸ごとの漬物もびっくりするが、なかなかにオツだ。チョレギサラダ、ナムルも美味しい。一品一品は小皿に手ごろな量でだされる。どれも味がよく選ぶのに迷ってしまうほどで、これがまた楽しい。


007

「お客さんはほとんどが日本人ですね。ここに来る韓国人のお客さんはたいてい私の友達、忙しくなると手伝ってくれたりして」と言って大笑い。店内は落ち着いていて、明るく、かつての“おじさんたちの呑み屋”ではない。一人住まいで家では料理をしない人も、この店の家庭的な匂いとキムさんのもてなしに、自分を取り戻しほっとするのではないだろうか。
 店が混んできても、客の注文を忘れたり、間違えたりすることもなく、料理を用意しながら何人もの客と話が弾む。話題は政治の話やら日韓文化の比較の話、硬軟取り混ぜて何でも来いという風で、知的な会話も楽しめる。カウンターに座って黙って呑んでいても、いつの間にか話に引きずり込まれてしまうに違いない。キムさん、一度来たお客さんの顔は忘れないそうだ。
「まあ、プロですからね。それに顔を覚えると喜んでもらえるし…。でも、名前を覚えるのは大変。日本人の名前は韓国人より長いから」とにっこり。キムさんの話す日本語は、私たちが話すのと変わりがないくらいに上手だ。

―――きれいな日本語ですけど、どこで勉強されたんですか? 「来日する前にひらがなとカタカナぐらいは覚えてきましたけど、日本で日本語学校に2年間通って勉強しました。嬉しいね、ほめられて」と今度は照れ笑い。

002


―――キムさんご自身のことを少しお聞きしますが、日本に来られたきっかけは?
「最初ワーキング・ホリデーで2007年に来たんですよ。ちょっと1年ぐらいいて、日本の生活を経験して少し言葉を覚えたら帰ろうと思っていたんですけれども、楽しくなっちゃって留学することにして日本語学校に通ったんです。楽しくなったのは、私の故郷はプサンですけど、そこから離れているからなのか、ちょっと自由な気がして、うまく説明できないけどそういう感じが自分は好きだったんです。東京はグルメ天国じゃないですか。いろんな国の人が集まっていて、それぞれの国の料理が楽しめる。そこからいろいろな異文化が体験できる、というのも楽しかった。私は食べることも好きだし、作ることも好きですね。それで、日本語学校の後、料理の専門学校に行きました。」
「子供のころから料理は好きだった、ってゆうか、よく手伝わされたんですね。うちは大家族だったんです。父が長男なので兄弟が一緒だったりで、食事の準備は大変だった。一番多かったときは8人ぐらいいたんじゃないかと思います。それに普段の食事だけでなく、日本でいう法事?、先祖の命日だとかお盆、それに旧正月とか、とにかく年に何回も特別な料理を用意しなければならなかったんですね」。

―――それで料理の腕を上げたんですね。特別な料理というのは地方色豊かな伝統料理なんですか? 「法事で出す料理は大体決まってるんですね。日本のおせちみたいに何が入らなきゃいけないとか、そういうのが決まっているんです。そこにはニンニクを使ってはいけないとか、唐辛子は使っちゃいけないとかっていうように……」。

―――唐辛子なんか何にでも使われているように思っていましたけど?
「昔のキムチは白かったんですけれども、日本から唐辛子が入ってきて使うようになったんです。ですから昔のキムチは辛くなかったと思いますよ」。

―――キムチの地域による違いはどういうものなんですか?
「地方によっても家庭によっても味は違うので、一言でいうのは難しいんですが、プサンだと海のそばなので、ふつうは魚の塩辛を使うことが多いんですけど、魚を丸ごと入れて漬けるのもありますね。発酵すると骨まで食べられるんです。ソウルでは魚は貴重だからイカの塩辛なんかを使う。昔は冷蔵庫がなかったから保存食には塩を多く使ったけど、今はキムチ用の冷蔵庫まであったりするので、だいぶ塩気はなくなりましたね。醤油漬けとかみそ漬けもありますよ」。

―――どうして西荻にお店を出すことにしたのですか?
「1年ほど物件を探しました。神楽坂や飯田橋辺りで物色したりしたんですが、なかなかいい情報がこない。それで探す範囲を中央線沿線まで広げたら、このお店が見つかったんですね。ここは一目ぼれでした。これはいいなという感触でした。前のお店も食べ物屋さんだったということで、すぐ借りることができました。

001


 西荻の街の落ち着いている雰囲気も気に入りました。日本に来て十年になりますけど、大久保とか高田馬場に住んでいたころは日本にいるという感覚を持つことがあまりなかった。でもここにいると、お客さんもいろんな職業の人がいて、そういう人たちとつながりができていくじゃないですか。日本人の中にやっと入れたという感じがして、これが日本での生活かなという実感がわきますね。」

―――開店して一年、これからの希望とか将来への夢を聞かせて下さい。
「女性のお客さんがもっと増えてほしいな、という願いはあります。そうなれば、ここでキムチの漬け方とか、料理教室をやれるんですけれども。ま、ちょっと大げさですけど、韓国文化の発信をしていく、料理も文化の一つですから、料理でできることをやっていきたいと思っています。宮廷料理や焼肉料理、辛い味つけだけが韓国料理じゃなくて、わたしが創ってここで出している小皿料理も韓国料理なんだと、知ってほしいですね。」
 西荻にまたいいお店ができたなと、強く印象に残りました。女性の方、一人でも気楽に入れますし、食べて、飲んで、料理の話など楽しんでください。常連さんが増えることを願っています。食を通じて韓国文化の発信をしたいというキムさん、これからのご活躍が楽しみです。


韓国小皿料理 Onggi(オンギ)

東京都杉並区西荻南3ー19ー13
TEL 03−6883−3268

営業時間 17:00ー23:00
日曜定休

文:鈴木英明、窪田幸子
写真:澤田末吉

取材日 2017年6月28日


重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。 著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

| | コメント (0)

«

『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ