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2015年10月 3日 (土曜日)

逸話溢れる日本最古の玉突き場「ビリヤード山崎」


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西荻窪駅北口前のロータリーを左に進み、すぐの路地を右に曲がるとレトロな二階建てモルタル造りが目に飛び込んでくる。此処が日本最古の玉突き場「ビリヤード山崎」である。ご主人、平山道子さんに設立から戦中戦後にかけての逸話を熱く語ってもらった。 

山崎の生い立ちは変わっている

「山崎の生い立ちは、ちょっと変わっているの。玉突き場なのに本棚があって、政府が所蔵していたウエブスター初版本が置かれています。」

ウエブスターとは、19世紀初頭に米国で編集された辞典である。一体玉突きとどんな関わりがあるのだろうか。

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「私の叔父で山崎助(やまざきたすけ)という人がいましてね、風貌は作家の芥川龍之介に似ていました。叔父は理想に燃えて財閥を訪ねては寄付を頼んだり、政府や国文学者から本を貰ってきたりしました。なかでもウエブスターは政府の保存本で曰くつきでした。太政官文庫と書かれた文字を消印して山崎の蔵書印を記していましたから。」

「また、叔父は渡航するのが珍しい時代にアメリカに渡って情報収集する熱心な社会改良家でした。」

社会改良家とは、社会主義的思想から発したものではあるが、マルクス・レーニン主義とは異なり、革命や階級闘争を否定して資本主義社会の中で穏健な改革を進めようとする人達の総称である。

「当時、叔父は昼働き夜勉強できる労学院施設をつくろうと奔走していました。本棚に置かれた本は、彼らに勉強させ読ませるために集めていました。」

「日本を代表する実業家、大倉喜八郎と叔父とは、若者に教育を施すという夢を抱いて意気投合していました。」

大倉喜八郎(天保8年―昭和3年)は、渋沢栄一らと鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場など数多くの企業を設立、東京経済大学の創設者としても知られる。

「年号が昭和になると、叔父が当時は不治の病と恐れられた結核に侵されました。喜八郎は叔父の生活費の一部にして欲しいと、西荻窪に平屋建ての玉突き場を寄贈しました。これがビリヤード山崎の始まりです。」

助さんは1928年(昭和3年)に結核で死亡したが、奇しくも同年、喜八郎も他界している。助さん亡き後、道子さんの父、要治さんが「ビリヤード山崎」を受け継いだ。

父と母、そして私

「父・要治の故郷は、岡山県旭川源流にある、あの三椒魚もいる月田という村の旧家です。切り立った山に囲まれ、そこから湧き出る水を露天の五右衛門風呂に注ぎます。私も子供の頃よく浸かりました。それはなかなか風情があって心地よいものでした。」

「祖父は農業と藍染を生業としていましたが、洪水に見舞われ顧客から預かった品物が水に浸かり、それを蓄えで弁償した為、破産に追い込まれました。しかし、家屋敷にはそのまま住むことが出来ました。」

山崎家は山林も所有する地元では知られる名家だったようだ。文化人としての名声もあり、私財を擲って弁償責任も果たした事も評価され、家屋を失わずに済んだに違いない。

「破産の後遺症から故郷で農業に従事するのが難しいと判断した父は、大正時代に東京の芝に引っ越して来ました。その後、学生時代に病に侵された叔父を助けるため、西荻窪の玉突き場で手伝いをしました。」

「父は小柄で器用な人でした。だから、玉突き以外にも、野球、テニス、弓道、能楽の宝生流など、多趣味で上手な人でした。」

「玉突き場の仕事が多忙で大学を中退した悔いがあったのでしょう、もう一度学校に通って勉強したいという気もちが人一倍強かったようです。」

「玉突き店は、その日暮らし。副業として経営する人がほとんどでした。父も同様で、蒲田に三共ダイヘッド製作所という会社を設け、ねじを作って販売していました。今ならコンピュータで大量生産出来ますが、当時は手作りの時代。でも、景気はよかった。」

ダイヘッドとは、金属の面取りをする工具名である。「ねじ切り」とも呼ばれる。これが開発されるまでは、ねじ切り作業はとてつもない重労働であった。要治さんが中退した大学は理工系ではないから、いったいどこでダイヘッド製造技術を学んだのか興味深い。単に器用なだけでなく、理工系頭脳と実行能力も備えていたのだろう。当時、ダイヘッドで生産されたネジは、戦闘機を始めとする軍需産業によく使われていた。

「父は、岡山県美作落合出身で産婆と介護師の資格を持った母と結婚しました。結核の叔父を看護するためでもありました。母は、看護と主婦業に加え、玉突き場の手伝いをもしなくてはなりませんでした。9歳年下の妹が赤ん坊だった頃、おぶってゲーム取りをして、身を粉にして夜中まで働いていました。」

「私の学校の受験日には寝過ごしてはいけないと、一晩中寝ずにいるのです。そんな様子を見かねて、私は五年生の時から、店を明け方4時頃まで手伝い始めました。そのため寝ずに学校に行く日々が続きました。だから、私には勉強をした記憶が一切ありません。」

「私は昭和9年、山崎のあるこの場所で生まれました。戦時中、家族は岡山に縁故疎開しましたが、父は多忙なこともあり東京を離れずにいました。兄が中学校に通うため上京することになり、私も同行しました。兄は父と一緒に居ましたが、私は宮城県登米市米谷(とめしまいや)に集団疎開しました。でも期間はそう長くはありません。やがて終戦を迎え、小学五年生の頃には東京に戻ってきました。」

「しかし、有難いことに昔の高校大学テストは○×式でした。人様の間でもまれると、いろいろな話を聞く機会があります。それに私は本を読むのが大好きな子でしたから、試験ではそういう知恵が働いたので、いつも女生徒の中では一番の成績を修めました。」

「高校時代、自分に好きな人がいると打ち明ける人が多かった。私は、そういう話をまったくしなかったから嘘つきだといわれました。私は子供のころから周りに男の人が沢山いたので、男性として見ていなかった。それとも私が美人でなかったから、そういう虫が付かなかったのかしら。」

「玉突きの愛好者は、何故か理工系の人が多かった。中島飛行機の社長さんやスカイラインを設計した櫻井眞一郎さんもよいお客様でした。」

「昭和18年、第二次世界大戦に突入すると、政府の軌道整備をするとの方針で、線路脇にあった玉突き場は次々と閉店に追い込まれました。しかし、山崎だけは中島飛行機で勤労する人たちの娯楽施設として残すということで継続することが出来ました。」

「西荻窪には、山崎以外にも3~4軒の玉突き場がありましたが、作業着姿の工員さんたちで賑わうお店で繁盛していました。でも、山崎は様子が違いました。山崎には中島飛行機の社長さんがみえるから、ネクタイをしないと大変と、お客さんが語るほどでした。」

道子さんが語る社長とは、中島飛行機を創設した中島知久平(明治17年―昭和24年)のことである。政治家でもあり大臣に就任した経験もある人物だ。

「最高裁の判事さんも常連でした。ビリヤードのことを何も知らない母にゲームの取り方を教えていました。」

「岸田國士さんも、松庵に住んでいたのでよく来られました。岸田さんは早くに奥様に先立たれていたので、娘の今日子さんを連れて来られることもありました。」

岸田 國士(明治23年―昭和29年)は、劇作家、小説家、評論家、翻訳家、演出家であり、娘は女優の岸田今日子である。

「國士さんが亡くなられて20年後、國士さんの御兄弟にキューを預かったままになっていると伝えると、暫くして今日子さんから母宛にハガキが届き、父が長いことお世話になりましたと記されていました。」

「オイオヤジと声を掛けながら、10本ぐらいはあったかしら、みたらし団子を持って入ってくるお客さんがいました。父が、あの方は西沢隆二さんという人だよと教えてくれました。」

西沢隆二(明治36年―昭和51年)は、兵庫県出身で第二高等学校時代から共産主義に傾倒した詩人、社会運動家でもある。戦時中は治安維持法で拘束された事もあった。

「当時の事だから厳しい拷問もあったでしょうに、そんな苦悩を支えたのがビリヤードの楽しい思い出だったみたい。」

「外地から帰還した引揚者も、よく遊びに来ました。物もなく雑炊を食べ、闇市に通って、いろんなことをして何かで稼いでいた。そんな大変な思いをしてもビリヤードをしたかったのね。みんな遊びに飢えていました。」

「私は父母が5人の子供を育てるために必死で経営してきたビリヤード山崎を、出来る限り存続させたいと思います。気がつけば日本最古のビリヤード場になりました。」

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「また、出会った人々についていろいろ調べたいと思うことが沢山ありましたが、もう80歳になったので過去に埋没しないで自分のやりたいことをしようと最近は考えています。」

これからもビリヤード山崎を続けるのかと話を向ける。道子さんは、「もう歳だから、でも、お客さんが沢山来たら続けようかな」とまだまだ意欲を見せる。盛夏の玉突き場、ひとり黙々とゲームに熱中する初老のダンディーな男性がいた。「カチーン、カチーン」乾いた音が玉突き場に響く。

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ビリヤード 山 崎

住所:東京都杉並区西荻北3-19-6
電話:03-3390-1095

営業時間:14:00〜22:00
定休日:月・火曜日
・JR西荻窪駅北口 徒歩50秒
・店主が高齢のため、急な休業や営業時間の変更があります。何卒ご理解の程お願い申し上げます。来店いただく前にお電話にて確認いただけると行き違いが無いと思います。

文章 奥村森
写真 澤田末吉


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